小さい頃
母が 『この、宗教に出会えた人は選ばれた人間なんだ』と言っていて
幼いながらも 私は 正直に
この人はヤバイ
と 思ったのです
まず 誰が人間を選ぶんだ という
母親のいう その神への 疑問 も湧きましたが
母親の『思い込み』のヤバさに
身の毛もよだつ感覚になったのは覚えている
じゃあ その神様より
昔の人達は 出会えてないけど
生きてたよ?
アフリカの奥地の人達は
なんで生きてるの?
選ばれたって なんなの?
選ばれたら なんかしなくちゃならないの?
神様が選ぶって
どういう意図があるの?
と 母親に訊いてみたらば
さいっこうに 怒られたり 殴られたので
お蔵入りになったが
人間の思い込みってのは
簡単には とれないんだなぁというのと
そんな よくわからない宗教というものに
祈る母親は なんだか 恍惚としていて
見ていると本当に気持ちが悪く
よくわからないが
『母親は 魂を売ったのだ』と 思ったのだ
契約をしてしまったのだ、と。
不幸な人をみると
『この、宗教に入れば あなたは助かるわ』と
囁き
『正しい教えを広めれば
私の魂は救済される』と 信じこみ
どんなに辛い境遇を生きてきたか を
覗き見し
幸せそうに生きてる人には 寄らない
それが 彼女のとった、選択、もしくは
契約ってものだったのだと
ある意味 俯瞰出来るようになったのは
つい最近のことで
それまでは
全て ひっくるめて
『宗教』ってものに アレルギーがありました
正直 今も まだ
鼻炎程度には アレルギーはありますが
宗教の歴史を学んでいくと
宗教が
言葉の成り立ちや
コミニュケーション
そして
社会 を 形成しているな と
つくづく 感じるときがあり
まるで
それは時代にふく『風』みたいな ものでしょうか
…とまで
少し距離を持って
宗教を見られるようになったのは
私が もしかしたらば
色々な物事や 事柄に
驚かなくなってきたから なのかもしれません
そう 私は
宗教を 『個人、個人の自分をうつすもの』
として みてみたらば
いいのかなと 思うようになったからなのです
それは 自由に
自分で、何を映してもよいもので
だから 欲しいものは なんでもくれる
幸せになりたかったら
(神様の視点)も手に入れられるし
それにより
自分を取り巻く物語を作れる
それは
神様と契約することにもなります
『眼を差し上げる』代わりに
神様の 眼差しを手に入れる
だけども 反対に その神的視点が無いという状況は
どんなんなんだろうと 考えてみたりもします
仏教の思想が 入ってくる前ってのを
私は想像することが大好きで
だから
縄文マニアでもあるのだが
その時代は
『自分』というものを どう捉えていたのだろうか
と
思いを巡らせてみることがあります
縄文土器の あの うねり を
日常のなかに 見出せた人々は
どういうコミニュケーションをしていたのだろうか
青森の遺跡なんかにいくと
針を 貝から作っていたりして
かなり精密な技術も持っていたらしく
長野県に住む縄文の人々は 夜でも輝く星の砂を
八ヶ岳から採取して
青森県に住む人々と
物々交換をしていたとか
(青森から 長野の砂が発見された為に 交流があったと わかったらしい)
そんな そのときの 両者に、かわされる(言葉)は どのような 響きをしていたのだろうか
とか
そのときの(言葉)には
(神)をあらわす 概念はあったのだろうか
とか
何万年も続いた縄文時代には
争い というものが あまり無かったという
そこに住まわっていた人々は
どんな眼差しをもつ人々だったのだろうか
考えずにはいられないのです
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