大きな問いをお持ちですか
なんでも良いのです
最近 カウンセリングをして思うのは
「問い」を持っている人は強い という事
人生のハウツー本には
「問い」より「悟り」が大事と書いてあります
ある境地に達することが幸せだと
その境地に達する方法が
巷には あまた あふれ
人はそこに 溺れゆくように感じてしまいます
そもそも 境地は
人それぞれなのだと 私は思うのです
それこそ 属性によっても違うし
本質によっても違うし
魂の故郷によっても違う
だから その「達する場」は
誰一人 同じではないのかもしれません
ハウツー本には
まぁ 色々書いてありますよね
煩悩を捨てれば〜
万能感捨てれば〜
嫉妬さえされなければ〜
どれも素晴らしく
出来たら どんなに幸せかと夢みてしまう
だけど だけども
それが出来ない方もいらっしゃるのです
では 何をどうすれば 楽になるのか
私はそこに 「問い」が大事な鍵になる気がするのです
それこそが 自由になる答えを
内包する「問い」
私の一歳半下の弟は
生まれながらの重度の脳性麻痺をもつ
身体障害者でした
当時 今ほど バリアフリーが進んでいるわけも無く 理解も無かった
障害者は生まれながらにして
異質な存在だったと
子供の私は 大人の表情から
理解しました
私は 弟が生まれてすぐ入院になった病院の記憶があります
子供が入れない扉の向こうに
祖母が泣きハンカチで涙を拭う姿と
母親の放心した表情
祖母の手にあったのは
朱色のハンカチだった記憶があります
そして 母親は髪が長かった
そこから 母親は髪を切り
私と弟を連れ 障害者の施設にリハビリに
行く毎日が始まりました
施設には 普段と違う世界がありました
嬌声や雄叫びが聞こえ
壁に頭を打ち続ける人や
震えがとまらない人もたくさんいて
目の焦点もあわず
よだれを流し
飛びかかってくる人もいた
匂いも外の世界とは違う
すえた匂いがする空間に
私は 何時間も 居ました
私は
一体ここは何なのか理解できませんでしたが
受け入れはしたのでしょう
ひたすら 人の表情を読み取り
安全か 安全ではないのかを
身をかがめ ジッと見つめていた記憶があります
初めて頭痛を感じたのも
幼稚園のとき
匂いがあまりにキツくて 倒れてしまった事もあります
私は 今 ここで 障害論を展開するつもりではありません
ただ
その時に
「この差はなんなんだ」と
血を吐く思いを 抱いていたということ
健常者と 障害者
病気と健康
差別されるということ
差別するということ
この差が何故あるのかを
誰も答えてくれなかった
ずっと私は この「問い」を
抱いてきたのだと思います
当たり前って なんなんだ
って言う事や
人間は何故 個体差があると
苦しみが生まれるのかということ
普通だったら
スルー出来るのかもしれませんが
私自身の親も支配者なうえに
体罰も酷く 施設から帰っても
心が休まることはありませんでした
私たち兄弟を連れ
心中未遂をしようとした母からは
生きることは困難だと
暗示が入っていたのです
だから
私は ずっと人の回復を見たいと
望んでいるのかもしれません
生まれながらにして
割り切れない境遇の方々はたくさん居て
だけど みんな 生きてきてた
私は そこに感動しました
心が その瞬間 何かを叫んだ気がしました
そして 沢山の方々の回復をみる過程において
自分の「問い」の答えを探して行きたい
そう気付いて
私は 自由になりました
誰も答えを持っていないなら
自分で一生かけて
それを 見つめて行きたい
手に入らない光かもしれませんが
色々な方の光を見させて頂き
光を目指してゆくのなら
それならそれで 私はいいのだ
と腹を括った瞬間に
私は楽になりました
人には
人生で至る場所がプログラミングされてある人と
至る過程こそが居場所の人とがいる気がします
至る過程が居場所の方は
至る場所を見つけられなくていいのだと思います
だからハウツー本にある「悟り」は
その方を
苦しめると思うのですよね
すると
怒りに酔うしか 手立てが無くなる
そんなとき
貴方の指標となるものは「問い」なのだと
思うのです
そして それはあなたの光
そのものなのではないかと思うのです
あなたの「問い」は何ですか?
乙原