感情労働 

感情労働というものを
単なる「人に気を遣う仕事」と捉えてしまうと
本質が見えなくなる気がしています

感情労働の核心は

「自分の感情を扱うこと」ではなく

『他者の感情の場に自分の身体を晒し続けること』
にあります

つまり

感情労働とは
感情を“出す”労働というより

他者の感情を受け止め続ける構造です

例えば

接客
看護
介護
教師
カウンセラー
コールセンター
母親役割

これらに共通しているのは

「相手の感情を乱さないこと」
が暗黙の仕事になっていることです

そして感情労働で1番しんどいポイントは

多くの場合

『自分の感情』よりも
『相手の感情の安定』が優先されるということです

感情労働を提供する側の、身体に起きるのは

* 微細な緊張
* 呼吸の浅さ
* 表情筋の固定
* 相手の空気を読み続ける疲労

です

特に長期化すると

「自分が今どう感じているか」が
分からなくなると言うことが起きてしまいかねません 

ここを精神分析的に見ると

感情労働はしばしば

「他者の欲望を支える位置」に主体(自分の選択権)が固定される

という構造を持ちます

つまり

「相手がどう感じるか」が中心になり

自分がどう感じるかが、ジリジリと後退していく

すると

主体は徐々に

「他者にとって都合のいい機能」になっていくという
構造になりかねないのです 

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ここで怖いなと思うことは、

感情労働は
外側からは“良いこと”に見えやすいということです

優しい
気が利く
共感的
ちゃんとしている
保護的
場を成立させている 
集団を維持させている 

しかし身体の側では
かなりの負荷がかかっていることがあります 

特に問題になるのは

『感情を感じる前に反応する』状態です

例えば

相手が不機嫌そう

瞬時に空気を読む

自分を調整する

この速度が速すぎると
主体が入る余地がなくなる

すると

「自分が本当は嫌だった」
「怖かった」
「怒っていた」

これらが身体の奥に蓄積されてしますのです 

そしてそれは後から

* 理由のない疲労
* 突然の怒り
* 人間嫌い
* 無感覚
* 解離感
* 身体症状

として出てくることがあります 

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さらに感情労働にはある種の『中毒性』もあると
見ています 

なぜなら

他者の感情を整えられると

『自分の存在価値』を感じやすいからです

「必要とされる」
「安心してもらえる」
「役に立てる」

これは非常に強い快感です

しかしその一方で

自分自身の欲望や疲労は
後回しになっていく

ここで大事なのは

感情労働そのものが悪いわけではない
ということです

人間は本来的に
他者と感情を交換しながら生きています

問題は

『境界が消えること』
です

つまり
相手の感情は感じる

しかし
それを全部“自分のせい”にしない

ここが非常に重要です

カウンセリングでも本当に大切なのは

「感じない」ことではなく

感じたあとに
自分に戻ってこられることとして
支援しています 

感情労働で消耗している人は

多くの場合

“相手の場”から戻ってくる回路が
かなり弱くなっています

だから必要なのは

休むことだけではなく

「自分の身体感覚を回復すること」
です

* 今、自分はどう感じているか
* 呼吸はどうか
* 身体は縮こまっていないか
* 本当は嫌ではなかったか

これを後からでも確認していく

もし、自分が消耗していたり、摩耗しているなと
感じたら

自分の立ち位置をもう少し『自分の感情』を
交えてもいい位置に配置し直すということも大切だと思っています

父親的な役割
母親的な役割
子供の役割
夫としての役割
妻としての役割

など家庭内でも、感情労働のような構造になることは
よくあります

でも感情は
『役割』として感じているわけではなく

『一個人』の人間として感じているものです

どんなに素晴らしい人間と言われていた人でも
後々、タガが外れたかのような『感情』を出す場が出現することは、よくあること。

例えば一休さんとして知られた良寛さんも
老後に、かなりの恋愛をしておられましたからね

人に説法をして、人の心を癒して・・という感情だけを
追求していると
どこかで0ポイントに戻りたくなるものなのかもしれません

私は、この0ポイントにもどる人間の感情を
否定できません
・・・むしろ、ここにこそ その人らしさの真髄が現れると思っています

役割を求められすぎると
どこかで帳尻合わせ、と言いますか辻褄を
感情の方が取りたくなるのかなとも思いますが

私としては
『身体』が辻褄を合わせたくなるのかもなと考えている節もあります

すっと、殻や、仮面をかぶってきて
他者に応えるというのは、本当に身体に負担がかかるものです

どの方も、その感情労働の作業をしていると
身体が固まる・・とか
胃が縮む感じがする・・などとおっしゃり

身体をのびのびさせたい という感覚を求めたがります

自然なことです

その『のびのび』の作用が
(あまりに逆転的な行動に出るとそれはそれで調整が難しいですが)

それまで抑圧され、萎縮させられていたものを
元の形に戻したいという現れだとしたら

それは、自然の摂理かなとも考えています 

ちなみに感情労働として1番きついだろうなと感じるのは
『母性業』です

いつも慈しみ、守り、労り、受け止める
ということに注入される感情は
かなりの負担を強いるものでもあるなと思います

また『男性』の役割も感情労働の極みだなと感じることもあります

推しなべて
『男は泣いてはいけない』と育てられてきた昭和の幼少期などを通過されてきた方は
『強くある』ことを強いられ
感情というものすら、邪魔なものとして扱う傾向があります

でも、その前に『人間』だったのに・・と感じるのです

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また一方で
感情労働を強制する側もいます

『親なんだから』
『子どもなんだから』
『男なんだから』
『女なんだから』
『先生なんだから』

という人たちです

その人たちの心理は『ディスクール』という『場』での語りを
しています

ディスクールとは4つに分類されていて

『主人のディスクール』
『大学のディスクール』
『ヒステリーのディスクール』
『分析家のディスクール』です

感情労働を強制する側には
かなりはっきりとディスクールが出ます

特に多いのが

* 主人のディスクール
* 大学のディスクール

です

しかも厄介なのは

この二つが
「善意」や「正しさ」の顔をして現れることです

主人のディスクール=  「従え」「こうあるべき」

大学のディスクール=  「知識・常識・正論で整える」

です

主人のディスクールの話し方はこれは非常にシンプルだし
よく聞く形態です 

命令・価値・上下関係が前面に出ます

* 「男(女)なんだから」
* 「それくらいやるべきでしょ」
* 「お客様のためを思って」
* 「笑顔は基本だよ」
* 「嫌でも仕事なんだから」
* 「空気を読んで」
* 「あなたの態度、周りが困るよ」
* 「それが礼儀でしょ」
* 「みんな我慢してる」

ここで重要なのは内容ではなく構造です

主人のディスクールでは『正しさ』が先に存在しています

つまり

* 良い社員
* 良い母親
* 良い接客
* 良い人間

の定義が先にあり
そこへ主体を従わせるのです 

つまり『良い外面』の強制が滲み出ます 

だから

相手の感情や主体性は基本的に二次的になります

感情労働を強制するとき
主人のディスクールはこう言います

不快感を出すな
相手を気持ちよくしろ

つまり

主体よりも
場の維持を優先させるという構造です 

一方の、『大学のディスクール』の話し方は
こちらは少し厄介です

なぜなら

“合理的”に見えるからです

* 「感情的になっても解決しませんよ」
* 「家族として必要なことです」
* 「それはあなたの能力の問題です」
* 「相手に信頼を与えることが重要です」
* 「みんなの気持ちを考えて」
* 「心理的安全性を守るためです」
* 「共感力が必要ですね」
* 「組織として適応してください」

一見すると

すごくまともに聞こえます

しかし構造としては
大学のディスクールでは知識や理論が主体より上に来ます

つまり

「あなたがどう感じるか」より

「どう機能すべきか」が優先されるのです

心の底からではなく
どこか机上の空論をしゃべられている感じです 

感情を統制しろという強制をする方も
自分の感情を出していないという構造です 

だから感情労働は
「スキル化」される

例えば

* 笑顔を作る
* 声色を整える
* 共感を演出する
* 空気を読む
* 不快感を抑える

これらが
「能力」として扱われ始めるのです 

そして
それができない相手には、劣等の烙印を押し始めます

ここで主体は

「感じている人」ではなく
「機能」になっていく

・・・・つまりロボット養成のような構造です 

主人と大学の違いは、個人的には面白いところです

主人のディスクール=「やれ」

大学のディスクール=「なぜそれが必要か説明する」

つまり

主人は命令し
大学は正当化する

そして現代社会では
この二つが組み合わさることが非常に多いなと感じるのです 

例えば会社で起きること

主人

「笑顔で対応しろ」

大学

「顧客満足度が下がるからです」

主人

「だから従え」

このループをぐるぐるすると、苦しくなりますね・・・

現在、カウンセリングに来られる方でも
このディスクールという言葉を知らなくても
何か違和感を感じていられる方は多く

『普通は〜』と言われると、会話ができないのかとがっくりきます 

とか

相手から問題を羅列させらえて
『あなたが考えなさい』と言われるが
そこを問題としていないから
『考えなさい』と上から目線で言われて、萎えます

とか

『子育てはこういうものだ』と言われて
現在進行形で、夫婦で手探りで子育てしているのに
子育てを語られて、腑に落ちません

など

『誰が語っているの?』という
ことは、よく見られます

そして、注目すべきことは 

この背後で語らせている存在(大学とか主人)が
実は親だったり、周囲の人なので

語っているご本人も
指摘されても、気づきにくいのです

二人羽織に気がついていない

ーーーーこれはカウンセリングで剥がしていきますが
     抵抗されることが多いのも実情です

自分の感情を表出させて拒否されるとういう痛みは
避けたいし、

誰かの言葉を借りた方が
拒否される痛みは和らぐとともに、強く後押しされている感覚にもなるので

相手のことを責められる、という三重ものロックがあるからです

感情労働は
強制する側にも、強制される側にもどちらにもなりうるものです

だからこそ

「自分の感覚に戻る」という行為が
非常に重要になるのです