
『言葉で把握する人』と『感覚で把握する人』
言葉で世界を把握する人がいます
このタイプの人は
• 体験を名前にすることで輪郭をつくる
• 語ることで、意味を広げていく
• 他者とのやりとりの中で、世界を“更新”していく
・ 秩序を作っていくことが、頭の整理になる
言葉は、彼らにとって
世界と自分をつなぐ橋のようなものです
話すほどに、考えるほどに、世界が増えていき、
そして豊かになっていきます
世界を『切り分ける』こと、『分類する』ことが
世界との接着でもあり、一致感を味わえるという特徴があります
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一方の、感覚で把握する人
こちらの人は、
• 体験を感じ切ることで深まっていく
• 名前(言葉)がつく前の層に、長く留まれる
• 内側の風景が、世界そのものになる
言葉は、橋というよりも
あとから置かれる標識のようなものかもしれません
まず、道を歩いてしまってから
「ああ、ここはこういう場所だった」と、静かに振り返る
それだけで充分出会ったりして
そこに目印としての言葉を置くか、置かないかは
その時の気分によってになります
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どちらが豊か、ではなく
面白いのは、
この二つは対立しているようで、実は循環しているところです
• 感覚の人が、たまに言葉を置くと、
それはとても“密度の高い言葉”になることがある
• 言葉の人が、ふと沈黙に触れると、
そこに新しい“感じる回路”が開くことがある
ということがあるのです
だから、世界は
語られることで広がり
感じられることで深まる
とも言える気がします
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私はどちらかというと感覚に近いタイプだと自己分析でも思うし
また周りからも、そう評されます
しかし、私はどちらか一方というより
感覚に潜っていると、そこから言葉が泡のようにポワリと浮かんでくる人のように感じます
言葉は、誰かに説明をするというよりも
感じたものを、ぎりぎり言葉の形にして差し出している感じがあるのです
ーーーさて
カウンセリングは『言葉』を使う仕事ではありますが
私はそこまで言葉を重要視していません
それは言葉の持つ特徴が
カウンセリングの場では、『刀』のようになってしまうことがあるからなのです
あえて、『刀』として使う場面もありますが
おおよそ、うちにいらっしゃるクライエント様のほとんどは
『言葉に追い詰められた人』です
なぜ、言葉が“追い詰める”ことがあるのか
感覚の人にとって、体験はまず
広がり、重なり、揺れているものとして現れます
そこに「説明して」「理由を言って」「はっきりさせて」という要求が来ると、
その揺れを、一つの形に“押し込める”ことになる
それは、
雲を箱に入れろ、と言われるような感じに近いかもしれません
雲は、浮かんでいて、雲であることで意味があるのに
箱に入れた瞬間、別のものになってしまうというものです
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言葉の人の側で起きていること
一方で、言葉の人は、
名前がつくことで、安心することがあります
曖昧さは、不安を呼ぶので
だから、言葉での輪郭を求める
ここには、
“把握したい”という意図だけでなく
“つながりたい”“理解したい”という衝動も混ざっていることが多い
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二つの回路の違いをどうするかについて
大切なのは、どちらが正しいかではなく、
どの回路で、いま話しているのかを、互いに知らせ合うことかもしれません
感覚の人が使える、短い言葉の例を置いてみます
『いまは、言葉にすると、少し壊れてしまう感じがする
もう少し、感じていたい』
これだけでも、
“拒否”ではなく、状態の共有になります
また感じていることを
都度都度、少しの言葉で良いので伝えていくということも
もしかしたら、言葉の人との間の架け橋になるのかもしれません
例えば
『今はぼんやりしていたい』
『ぼんやりできている時間をありがとう』など、とね。
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私のカウンセリングでの実感からすると
「評価しないで、質感を尋ねる」
「美しかった、という体験を、そのまま受け取る」
これは
感覚の回路が、安心していられる場をつくっているということをしています
感覚の人が苦しくなる時、
言葉が追い詰めるとき
本当に苦しいのは、
“この感じが、ここでは生きていていい”という許可がないことかもしれません
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ユング派として知られる河合隼雄先生が生涯をかけて追及していたものがあります
これはそのままではありませんが
私なりの河合隼雄先生の理解をすると
『依存症者の深層心理には、内的な“空洞/渇望”を埋めようとする動きがあり、
それが宗教的・象徴的な構造と類似する側面があると理解されることがある』
これは、感覚の人と、近しいものがあるなと思うのです
感覚の人は
膨大な感覚にいつも浮かんでいるような感覚があります
感覚は、ある程度
自分で絞れるようにならないと、無尽蔵に流入してくるということがあります
『カメラの絞り』と一緒のシステムですね
カメラの絞りとは
光の量の調整でもあります
絞りを最大に開放すると、光だけが長期間入ってくることになってしまいます
その場合は、開く時間(シャッタースピードを早くしたりして)
快適な情報量に調節することをしないとならないのです
感覚の人は、そこを調節するということ、
実は、調節できるということを知らない人が多いのです
(光の量の調節でもいいし、時間の調節でもいいのです)
感覚の人の、黙っていても、(感覚)情報が入ってくるというシステムは
それは愉悦でもあり、また苦痛でもあると感じます
足が地につかない感覚を楽しむこともあれば
足場がない感覚に、不安に駆られることもあるというものです
感覚の人は、そこを行ったり来たりするのです
(だから創造性などの仕事にするのが向いている・・というのがありますし
その一方で、数列や記号など、取り決めらた世界に触れていることが
足場になったりもするのです)
感覚の人は、言葉では説明がつかない混沌を
感じられたりして生きています
だからこそ、『安全』な場所を必要とするのですが
それは言葉で説明された世界ではなく
むしろ、『安全に自分の感覚を許されている世界』があるというだけでも良いのです
『意味や超越への感受性が強い』という感覚を
少しでも、なだらかにできる場所が必要だなと感じるのです
さて感覚の人が、
『足がつけない』という感覚についてですが
これはとても身体的で、同時に存在論的な表現だと感じるのです
臨床の言葉に置き換えると
• 安全感の基盤が不安定
• 世界に“接地”している感じが薄い
• 自分がここに在るという実感が揺らぎやすい
こうした状態にあると
強い感覚、強い意味、強いつながりを与えてくれるものが、
一時的に“地面”の代わりになることがあります
それが、嗜癖としてあらわれてしまうのだと思うのです
嗜癖は
• 身体に強い感覚を与える
• 時間の感覚を変える
• 孤独や空虚を一瞬、別の質に変える
その意味で
擬似的な“救い”や“接地”として機能してしまうことがあるのです
大切なところはお互いの違いを理解するところから始めるのがいいと思うのです
ーーー『感覚の人と言葉の人、依存のかたちの違い』ーーーーーーーーーーー
私の枠組みに重ねるなら
• 感覚の人は、身体や感覚に直接作用する嗜癖に引き寄せられやすい
• 言葉の人は、物語や意味に作用する嗜癖(関係、評価、承認、思想)に引き寄せられることもある
どちらも、
“足場”を求める動きとして見ることができるかもしれません。
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これらの嗜癖を『治すべきもの』『断つもの』とした『悪』と
私は、どうしても捉えることができないのです
むしろ嗜癖はその人、それぞれの『救い』として機能しているということが
見えるからです
では「嗜癖」をどう扱うか
救いを求める衝動そのものを
“病理”としてだけ扱うと、
その人のいちばん大切な感受性を、切り落としてしまうことがあります
一方で、
その衝動が自己破壊的な回路につながっているとき、
そこには、別の“足場”が必要になります
臨床的にはしばしば
意味ではなく、安全から始めるという姿勢が取られます
• 身体が少し落ち着く場所
• 誰かとつながっても壊れない経験
• 繰り返し戻ってこられるリズム
それらが、
“救い”の抽象的な言葉よりも先に、足元をつくることがあるのです
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そもそも、私の禅の師匠は
私たちの世界を海として例えます
私たちは、海の上にできる『波』のようなものなのだ・・と
波は、海の一部だから
海を支配できず
海に浮かんでいるからこそ、波として成り立っている
波が感じる『どこへ行こうか』という思考すら
『海からのもの』であり
波は、海から少し浮かんで『波』として存在している時間だけが
波なのであり
しかし海の一部であることには違えない
やがて波は、ついぞなだらかになり
波はなくなり、海の一部となるのだが
その、『波』として存在している間の
『波』が、波として『自我』を感じられるということこそ素晴らしい恩恵ではないか
ということを
つらつらと、先生は話すのだけれども
(こんなに詳しくは話さないけど)
そもそも、足場なんてものは
『波』にはなくて
むしろ『足場』を求めること自体『波』には不可能であって
波は、『自分は海の一部である』と
心底理解する時こそ、もしかしたら
大きな安心を感じるのかも知れない
という師からの教えももとに、カウンセリングをしています
まさに禅問答で
足場を求めることをやめた時に
大きなものに、沈みもせず浮かんでいたんだという感覚がわかる
みたいな感覚でしょうか
禅問答とはよく言ったもので
盾と矛が、実は同時に存在するという境地が
実はあるよ・・みたいなところなのです
そう言ったいみでは、
言葉の人と、感覚の人は
光と闇
盾と矛
みたいなものかもしれませんが
どちらも、無いと 在ることができない
みたいな関係性なのかもしれません
なので、
波でいる間は
お互いに、理解は難しけれども
共生できるように、お互いを理解したいという意志こそが
『海からの贈り物』として感じるしかないのかもしれません
『男』と『女』と分類に四苦八苦していた時代から
今はジェンダーレスなんていう考え方も導入されてきましたが
感覚の人と、言葉の人、という分類も実はあるということが
周知されて
お互いに『いい時間』を確保出来たらいいなあと考えている今日この頃です







