静かに扉を閉める

喋らないという閉じ方について 

言葉や情報が多すぎる場所に長くいると、
頭が止まるか、ひどく疲れるか、どちらかになることが多かったと思います

これはカウンセリングにいらっしゃるクライエント様にも
よく観られる現象です 

何か物事があったとして
その物事に対して

考えが深まる、というよりも

考えが溢れてしまう、という感じに近いのです 

現代は、
音も、言葉も、感情も、評価も、意味も、ずっと流れ続けている状態です 

少し携帯を開いてみたらば
画面の中から、
人の人生や、怒りや、正しさや、期待や、善意が、
こちらに向かって飛んできます 

それを一つひとつ
受け取ろうとすると、ものすごく疲弊する感覚になるのです 

そして結局、身体自体が重く感じられるようになり

頭が腫れぼったくなる 

いろいろ試してみたのです 

情報を減らすとか
通知を切るとか
自然の中に行くとか
呼吸を整えるとか 

どれも、ある程度は効いたと思います

でも、いちばん効いたのは、
とても単純な方法でした 

それは『喋らないこと』

『言葉にしないこと』

『沈黙し続けること』 

喋らない、というのは、
無視するとか、閉ざすとか、拒絶する、という意味ではありません 

私の場合は、
喋る、という行為そのものが
思っている以上に、たくさんの回路を動かしているらしいのです 

自分の気持ちを伝えるための言葉を選ぶ
相手の反応を想像する
空気を読む
誤解されないように、意味を整える
必要なら、言い換える

それを一言のあいだに
何層も、同時にやっているのです 

だから喋ると
情報を出しているつもりで
実は、もっと多くの情報を
自分の中に取り込んでいるような気持ちになるのです 


しかし

喋らないで沈黙していると、
その回路が 一度止まるということに気がついたのです

当たり前のことですが 

受け取る
返す
調整する

その往復運動が止まる時に

やっと自分の内側の水面が
少しだけ、静けさを取り戻すのです 

私はそれを、
『膜をはった』と呼んでいて

意味合いとしては『外界との交流を一時遮断』
そして自分の窓や、扉を閉じるということです 

また、誰かと喋らないということを通して
頭の中も、『自分へのお喋り』を止め始めるのです 

ただ閉じることには2種類ある気がしています 

ひとつは
①回復のために閉じること

もうひとつは
②傷つかないために閉じること

前者①は、
喋らなかったあと、
少し楽になったりします 

後者②は、
喋らなかったあと、少し重くなります 

この違いは、
言葉にしにくいけれど、
身体は、だいたい知っているような気がしています 

私は長いあいだ、
喋らないことを、
どこかで「逃げ」だと思っておりました 

小さい頃から『説明しなさい!』と言われてきたし

自分の考えを述べるという授業は相当数ありました 

ちゃんと説明できない自分は、
未熟なのだと思っておりました

そして、未熟なことを隠そうと
他人の『喋り方』を模倣して、空気感やスピード、テンポまでも真似して

やっとこさ普通のような喋り方を体得したのだけれども 

それはどこか無理が生じていたのかもしれません

私は喋るということに非常に脳を使わねばならない性質かもしれず

どちらかと言えば
『外界の感覚を、感覚のまま味わう』の方が
自分の性質に合っているなあと思うのです

言葉にすると、どこか断定的で分断されてしまう感覚を覚えるのです 

近親者には『無視をしているわけではない』と断りを入れていますが
どこかそわそわする感じにもなります

喋るということでコミュニケーションを取らないといけないと
どこかで思っているのでしょうか

しかし、正直
喋らないという状態は非常に私を安定させて
かつ、脳内がスッキリするのです

なので最近は少し違う見方をしております

喋らない、というのは、
私にとっては、
世界から断絶するとか、消えることではなく

世界との距離を
『一度、調整すること』
なのかもしれない、と。

ここから、少しだけ、
実務的な話を書いてみます 

もし、この文章を読んで、
「自分も、すぐに疲れる」
「頭が止まりやすい」
「人と話したあと、ぐったりする」
と感じる人がいたら、
たぶん、その人も、
どこか“開きっぱなし”のまま生きているのかもしれません 

そういう人のための、
とても小さなメモを、いくつか置いておこうかと思います 

メモ1
喋らない時間を、意図的に作る 

沈黙は、自然には訪れにくいものです 

放っておくと、言葉は勝手に流れ込んできます

なんの気なしにテーブルなどに置いた本からも
言葉は入ってくるものです 

だから、
一日のどこかに、
「誰の言葉も入れない時間」をあらかじめ作るのです

数分でもいいです 

ちなみに、私は頭が
言葉や情報を外に流すまでの時間が相当必要だったらしく

その間は、ただひたすらに公園を歩き続け

色々なものの匂いを嗅ぎ

お腹が空いたら、(ネットでお店の評判など調べずに)
匂いで判断して食事をとり

時間は見ない

陽の翳り具合と、温度で
(そろそろ帰ろうかなあ)なんて思ったりして

そんなことをひたすらしている時間があって

やっと
言葉と情報からの呪縛から解放されました

そんな
画面を閉じる
音を切る
誰にも返事をしない

沈黙を守りきる 

それだけで
感覚は、少しずつ内側に戻ってくるのです 

メモ2
答えを、すぐに出さない

問いかけられたとき、
すぐに答えなくていいと思っています 

「後で考える」
「今は決めない」
「今日はここまで」

この三つの言葉は、
閉じるための、
とても便利な道具になります

何も、すぐ返事をしたり
自分の立ち位置を示さなくてもいいのです

もろもろの判断をすることを遅らせるだけで
頭の負荷は、かなり下がるかなと思っています 

メモ3
言葉を、身体で確認する

喋らなかったあと、
少し楽になったか
それとも、少し重くなったかという判断について

正解はないと思っています
評価もしなくていいと思っています

ただ
どちらだったかを
覚えておくだけでいいです 

それが、
自分に合った閉じ方の
地図になると思います

相手に対して罪悪感を覚えるか

もしくは、情報を欲しているのかもしれないという自分に気がつくということが
とても大事なことです 

周りからのすべての言葉を、
受け取らなくていいと思うのです 

すべての問いに、
答えなくていいとも思うのです

そしてすべての感情を
引き受けなくていいと思っています 

そう思えるだけで、
感覚は、少しずつ自分の側に戻ってきて

自分の感覚と一致する時が、いずれやってきます 

たぶん私は、
ずっと、開きっぱなしで生きてきたと思うのです 

だから、
閉じる、という技術が、あとから必要になったのかもしれません 

喋らない、というのは
その中でいちばん簡単で、
いちばん確実な方法でした

そして、周りからは『かつての私(喋っていた私)』を求められることもあって

それはそれで

『ずいぶん、私は一生懸命に自分を説明しようとしていたんだなあ』とも
感じるのです 

沈黙は世界を拒む壁ではなく
水面に浮かぶための浅瀬のようなものだと思っています 

深いところに
沈みそうになったら
そこにいったん戻る

足がつく場所に戻る  

結局のところ、喋ったとて
自分の全てが伝わるわけではなく

また人の話を聞いたとて
その言葉だけで、全てを理解するのは至難の技です 

カウンセリングでは
クライエント様がお話になることというのは

表面

の事で

実はその裏にある『喋れないこと』を聴くというのが大切なことです

喋れないこと=本音=感覚の中にあるもの 

でもあります

そして、その本音と感覚をズバッと突いてしまうのはエレガントではないというのが
教えでもありますが

クライエント様が自分の本音と感覚に繋がれるようになるように支援するというのが
非常に大切な仕事でもあります

それは社会的な制約をされない
『自由意志』な場を自分の中に、もう一度創り直すという作業でもあります

まずは、自分の感覚と繋がるために

自分の中に
『沈黙が許されていて外界の情報が入らない場所』
自分の中に探すということ 

それが
私にとっての
閉じ方なのかもしれず

また、この閉じた状態によって私は私に再会を果たしたわけです 

(画像は奈良美智さんの美術館 (撮影OK)のところからお借りしました)