前回、マツケンサンバの話を書いた
私は、自分の中からの、変な声に対してなんとかしたいなあと考えていて
師匠なんかも
『なるべく気晴らしをよくとって。
困りごとに取り合わないというチャレンジも大事』と言っていたから
『マツケンサンバ的なものを
頭の中に流せばいいかな』とふいに出てきたのだが
ついぞ昨日のこと
ある健康的なセラピストの方と話していたら
『マツケンサンバを流すと除霊になるらしいですよ〜』と言われて
驚いてしまった
私がどこかで『マツケンサンバ』を流すといいとの情報を
なんと気はなしに知っていて
それを自分で考えたかのようなふりをしてしまったということは
多いにあり得る
そうなのです
自分で考えたかのような物事って
実はあまり無いのかもよ・・という話を
以前に禅の師匠からなされたことがあります
また、たとえば『電気の発明』なんかも
エジソンが最初だと言われているが
実は世界中で沢山の人の人々に研究をされていて
その中でもエジソンに
『世界からの称賛』の白羽の矢が立ったと言いましょうか
陰には
沢山の立役者的なライバルがいたわけですが
その存在はエジソンを勇気づけ
悔しがらせ 勢いづけたかなと思います
フロイトとユングの2人は
世界でもっとも稀で希少な存在だと言えます
2人とも心と精神とを追い続けましたが
フロイトはいわば認識できる方からのアピローチで
ユングは認識しづらい無意識を研究して
深層からのアプローチを研究していました
その2人が同時期に出現したのもすごいお話。
どちらが優劣かというわけではなく
お互いに道は違えども
2人で『一つの大きなもの』を見ようとしていた視点が
それぞれにあって
その2人が創り出した世界観は、今も後世の私たちに影響を与えている
世界はたびたびに
そういう相反するミラクルな存在を同時に出現させるような気がします
この相反する存在となってしまった2人は
いわゆる『因縁の仲』とも言えるのかもしれませんが
この『因縁』だからこそ
見えてくる全体像のようなものがあるような気がするのです
白と黒
光と影
善と悪
など、それぞれの存在があるからこそ
自分が存在出来るというものがあります
『善』だけでは、『善』という概念は出てきません
・・そこを超越すると悟りらしいですが
そんなこと、わからないし
『悪』だけでも『悪』とは、成りきれません
・・搾取するものがいなくなってしまったら
何も取れないのです
また限りなく『白』の世界というのも恐ろしいもので
一度、その白い世界に入ったものなら
人々は、どうにかして、一点の黒いシミでもいいからと
何か『目印』となる黒いものを見つけようとするでしょうし
漆黒の闇の中では
少しの灯りでも、ともるとホッとするものです
そういうように
この世界というものは、必ず一つの存在(世界)を認識するために
『相反する認識をするもの』を出現させて
その2人を競わせて、世界の認識具合を促進させることがあります
チャットGPTなんかも
私はかなり希望を感じるのですが
しかし一方で慎重派の方々もいるのですが
それはそれでいいのだと思います
(手塚治虫を呼んでたりすると、チャットGPTとかは
怖く感じたりもするのはわかる)
西洋と東洋の分断とまでは言い過ぎかもしれませんが
まだまだお互いの宗教観なども理解しあえていない
お互いの思想を
もう一度融合させたり
拒否したり
受け入れたりを吟味することは大事かなあと感じたりするのです
かの世界的な大企業が
仕事の始まる前に『瞑想』を取り入れているというのは有名な話ですが
まだなんとなく
偏りがあるような気がする
もっとお互いに
お互いを知ろうとすることが一番大事な姿勢のような気がするのだけれども
そんな中で
人々は携帯だとかパソコンだとかのツールを持つようになり
そこから『他人の私生活』をみれるようになってしまいました
他人の私生活だから
自分の生活とは、なんら影響な無いはずなのに
なぜだか心が乱されるという人が多く
カウンセリングでも、そのあたりの悩みと苦しみを訴える方は
多いのです
『他人と自分』という
この二つの相反する項目も、どう自分の中でバランスを持っていくかが重要です
自分だけ
他人だけ・・ではバランスが悪く
生活をしづらくなってしまうものです
そこで大事になるのが『境界線』という考え方なのですが
『ここまでは受け入れますが
ここからは受け入れられません』という線(ライン)を
自分の中で再確認することです
その線(の内側)は、心のパーソナルスペースとも言えるのかもしれませんが
侵入されたら
そりゃ嫌でしょうし
自分も気づかずに侵入してしまっているケースもあるかもしれません
しかしその『境界線』を
自分のものも
他人のものも
気付くようにして生活していくと
他者との関係性で
『ワンクッション』が生まれやすいのです
私と他者との間には、境界線は一本ではありません
私の境界線と
他人の境界線が 二者の間にあるので
線は必ず2本あるはずです
それをきちんと見極めて対話をすれば
境界線と境界線の間にある『不確定で不可侵』な空間が見つけられるようになったら
もっと生きやすいのになあと思うのです
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なのでマツケンサンバだとかを
同時期に気付いたというのも
もしかしたら、何かの采配の一つなのかもなあと思ったりもします
もちろん、私がどこかで目にしたり
聞いたのを覚えていないということも可能性としては充分にありますが
『念』というものは
境界線を超えて影響を与えていくので
それを守る知恵なんかも降ってくるのかもしれません
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