侵害されているということはすなわち支配されているということ

性的虐待において、どのような回復の形が被害者にとっての本当の『癒しと安心感』を
もたらすのかと言うことについて色々と考えてきました

 

性的虐待とは、身体への侵入行為(悪戯・レイプ・望まない身体的接触)
が一番に上がりやすいですが

実はそれだけでありません

自我意識への侵入行為も含めるのです

 

自我への侵入行為とは、精神的にその人の個性や感覚などを、言葉や態度、その時々の規律などで
縛っていく行為になります

例えば私の父親ですが
父親はかなり温和な人ではありましたが

実は『娘は自分の所有物』として捉えている人でもありました

 

よく思い出すのは『私が中学の頃にピアスを開けたい』となったときに
父はこう言ったのです

『親からもらった身体に傷をつけるなんて何事だ』

その時の私の混乱は今でも覚えています

『自分の身体をどうするかの決定権は、私には無いものなのか?』

それを聞いた私は納得できず
次々にピアスを開けるのです

それには、『自分の身体なんだから自分で選んでいいのだ』と言う
若い表明でもありました

 

もちろんその当時の校則は私立ということもあり
かなり厳しいもので
すぐにバレてしまいます

教師から父親に電話が行ったのです

何をどう話したかはわかりませんが

教師から呼ばれて『お前の父親はかなり古い考えなんだな・・』
と言われた記憶があります

その後、このピアスが元で何ヶ月も父からは無視の状態が続きましたが

しかし父親と話すことなど元より少なかったので
特に気にもせず過ごしていましたが

 

でもなんとなく父親の本音の部分が気持ち悪くて
『親からもらったからだ』という部分を思い出すたびに
落ち着かない不可思議な感覚に陥ったものです

 

父親は普段から
口出しもしない人でしたが

でもこの『親からもらった身体』という感覚を持っている人が
身近にいる状態というのを感じながら
一緒に居続けるというのは
どこか身体がぐにゃりとしてくる感覚が徐々に増えていきます

 

私は自分自身が親となり
息子が16歳になった際に『大型バイクの免許をとる』となったのですが

その時に不意に父のこの言葉を思い出しました

だから、何も言えなかった。

子供の身体は、どう使おうと、子供自身のものなのだ。

 

そりゃ親だからこその心配もありますが

子供がはめを外したり
危険な行為をしたのであれば、

それは私がきちんと『何を大切にしたらいいのか』と言うことを
伝えられなかったことへの答えであり

反省をしていかねばならないと覚悟も必要でした

 

子供が新しい経験をするたびに
恐ろしく不安な日々もありましたが

でも、それを親である私の不安な感覚のために
子供の経験を阻止するということができませんでした

 

それは結果的に、今となればよかったのだと思う

今ではずいぶん遠い地方までバイクで旅をしに行ったと事後報告を
受けるだけですが

私がした、息子への判断と

私の親が、私自身にしてきた判断とを思い返すと

父親への気持ち悪さが年々増してきて
それとともに足も遠のいてくるものです

 

 

他にもたくさんエピソードはありますが

この自分の身体を、自分以外が無理やりに所有しようとするという概念の押し付け行為は
我々は性的虐待と考えており侵害行為になります

 

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自分が、次の世代である子供に対して
ある意味反面教師として、子育てにおいて熟考を重ねてきたので

それは子供達にとっては
いいものとして継がれていったのだと思う一方

一方の私はというと

自分の傷のようなものは癒えてはいないにもかかわらず

『子供の自由と尊厳を傷つけてはいけない』といった立場を降りれないという
中間管理職的な状況はかなりの負担でした

 

だからこそ
どういう行為や考えが
自分自身にとっての『癒し』をもたらすのかということはかなり追求し続けてきました

他人に、『どうか侵害しないでください』と言ったところで
私の意図が通じない人も大勢いる

それでは一体どうすればいいのだろうか

 

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侵害をしてくる人たちの『言い方』として

『それは普通のことだから』という前提を持ち出してくることがよくあります

誰々もやっている
昔からそういうものだった

という大義名分を錦の御旗のように掲げてくることが多い

それを持ち出されると
こちらの言い分は『マイノリティ』『少数意見』として
却下されてしまう

多数決の恐ろしさというところであります

赤信号みんなで渡れば怖くない

のように
タブーさえ、『まことのこと』のように思わせてしまう力が
大衆意見には在るので

自分の方が『間違っているのかも・・』と思ってしまうことも
よくあることです

 

私が思うに
親が『子供の身体』に責任を持って守るのは思春期の前までだと思っております

年齢にしたら10歳くらいまででしょうか

そこ以降は、子供の身体は、子供本人のものです

 

親が指示的な強制をするのは
いき過ぎた侵害行為ではと思うのです

『女の子は、ふしだらな格好をしないものだ』とか

『親に逆らうものではありません』

といった
強制的な檻に入れられた後は

ご本人は、何をどう選んでいいのか途方に暮れてしまい

結局、親に『許可』を貰わないと
落ち着かない・・といった風情になりがちなのです

 

カラクリとしては、単に
親自身が『不安を持ち続けられないこと』と
『子供を管理するのが親の役目』だと自己任命してしまっていることからなのです

 

また書きそびれましたが
子供の感受性は、子供自身のものです

子供がどう感じようと、それは子供のもの。

よくあるのが『男の子なんだから泣かないの!』とかでしょうか

これ、私の小さな頃はよく聞かれた文言で
親や、学級の先生などは、泣きべそをかいている男の子によく言ったものです

いやいや
泣きたい時に、『泣かない』と強制するということは中々厳しいもので

私は女性だが
泣きたい時に泣くし
それを『泣くもんじゃない』と言われたらどうしていいんだかわかなくて
それこそ感情を無きものにするのでは・・と思うのです

 

多くのクライエント様を見ていて思うことは

みなさま、自分の感情というものを
どう『持っていいいのか』ということに非常に悩まれているということです

そして、『感覚』はあるのだけれども

その『感覚』が『言葉』として脳内で成立していない
・・ということをよくお見受けします

 

感覚は、原体験の素朴な身体での反応です

雷が鳴ったら身体がすくむ
・・驚き

小さき生き物を見たら触れてみたいと身体が感じる
・・愛おしさ

鋭い言葉を投げつけられて心臓がキューっとしたら
・・驚き 傷つき 悲しみ しんどさ

迷子になり身体がヒューヒューする感覚
・・心細さ

笑いかけられて身体がポカポカする
・・高揚 喜び 親密感

など
感覚がまず立ち登り

そしてそれに見合う言葉を学習していき

そして言語を学ぶ際に
感覚にマッチする言葉と言葉をどう繋げるか

という段階を経て
人間は『自分の感情は、今 こう感じているんだ」
と把握できてきて

把握できたからこそ
自分自身への工夫と対策が立てられるようになります

 

それが真の自立への第一歩なのに

いかに多くの人々が
『感覚』を亡き者にされ(身体への侵害 支配行為)
『言葉を矯正』され (言葉での冒涜 罪悪感の植え付け)

をされて

自分自身のことを信じられなくなっているのだろうか

という現実をよくみます

 

 

カウンセリングは安全な場所として設定されます

カウンセリングは
何を感じても『受容』される場所であります

『受容(感じていることを伝える)』と
『表現の受容(感じていることを晴らす、表出させる)』は違いますが
それはまたの機会に書くとして

今回はサラッといきますが

『こう感じている』ということについてカウンセリングは
強制も矯正も致しません

だけれども『お困りのこと』があってご来所されるクライエント様は

『自分の感じることが悪きものだ』という誤認識をしているので
感じていることは誰からも罰せられないのだという
安全を感じていただきます

 

安全策の内側では、罰する存在はいないので

思う存分、『何を感じているか』ということを
十分に掘り下げていきます

身体を侵害されてきたのか?
心を侵害されてきたのか?

そうすると輪郭がおぼろげだったクライエント様が
ご来所のたびに
輪郭がしっかりとしてきて
黒目なんかも綺麗に澄んできて
ある意味の『自己結界』が出来てくるのです

すると、周りの人からのどんな侵害行為も

『迷惑だから黙ってちょうだい』ばりの撃退方法が
自然とできるようになるものです

   

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