冗談と嘘がわからない
私は小さな頃から
自分の空想や、考えていることを
紙に書き出してしまうことがあり
それこそ連絡帳や、学校の机や、自分の爪や
ランドセルや壁や
至る所に、色々な思いを書き出してしまう癖がありました
おそらく自分の脳内の思考を書き出すということが
ごく自然なことだったと思うのだけれども
自分が好きな子や
先生が嫌いとか
怒られた話や
苦手なことや
逃げたいことや
そんなことまで、誰でも読める場所に書いてしまうものだから
しばしばそれは
問題となっておりました
周りのクラスメイトたちは面白がって
何かないかと連絡帳を覗こうとしてきたり
自由帳を見ようとしますが
私は自分でもなにを書いているのか把握できずに
ただ身体が思いつくままに
どこにても書いてしまうものだから
あとからそれを見られてひどく恥ずかしい思いをするということが
多々ありました
どうして、そんなことをするのか
自分でもよくわからない
でもおそらく今となれば
自分の頭で処理できないことを『書き出す』という作業により
脳内から汚水を排出するようにしていたのではないかと推測する
『おかあさんきらい おかあさんこわい』とかもよく書いていた気がする
ある日休んだ次の日に
クラスメイトが『あの連絡帳見せてよ』と席に寄ってきて
またなんかあるのか?と思いつつも
放っておいたら
連絡帳を引っ張り出されて
『OOくん すき』と書いてあるところを
大声で読まれて
自分でも驚いた記憶があります
『そんなこと、書いてたんだ!!』という驚きと
そんなこと書くのは自分くらいなので
なんとか、その書くという行動を止めなければと必死になった挙句
今度は『嘘をつく』という行動が問題となって現れ始めたのです
この『嘘をついてしまう』という行動は
その後何年も非常に私を苦しめました
殴られたり、責められたりすると
口からスラスラと言い訳が出てくる
しかしその言い訳は、もちろん嘘が多く含まれているので
嘘を言っている自分自身を認識できているのだけれども
自分を止められない
ほとんどの嘘は
『体育、今日休みだって言っていた、時間割通りじゃないって先生言っていた』とか
『お腹痛いから学校行けない』とか
人前で発表する社会の授業なんて地獄すぎて
話せなくなるのがこわいので
『今日学校ない』とか
『OOちゃんが夜遊びに行こうと言っていたから出かけてくる』とか
『⭐︎⭐︎ちゃんが、誕生日会に来てって言っていたから
プレゼント買いに行きたいからお金ちょうだい(もちろん呼ばれてない)』
→せしめたお金で買うのは自分で食べるガムを10個とか。
『今日、学校でお化けみた』とか(見た記憶なし)
『猫とずっと喋った』とか(もはや大丈夫か、私と心配になるレベル)
全部バレる嘘すぎる・・
遠くから、嘘を言っている自分を眺めながら
それでも止められずに
『あーあ・・』とため息をついていた記憶があります
これは今思えば明らかに解離の現象ではありますが
虚言は数年続きました
その後、虚言はパッタリとやむことになります
しかし何故に虚言が止んだかというと
母親からの暴力が激しくなりすぎて
虚言だけでは対応しきれなくなったということもあると思うのと同時に
ある出来事を思い出します
私は、いっとき
嘘をついたらそれこそ死ぬほど殴られたり
罰を与えられたりしておりましたが
その一方で
母親はよく『冗談だよ』と言いながら
何かひどく屈辱的なことを言うのです
屈辱的なこととは
『あんたみたいな人間は生きていけない』と言い放ち
私が驚いて立ち尽くしていると
大笑いをして『冗談だよ』と言う
『そんなんじゃ誰からも嫌われるよ』と吐き捨てられて
悲しくなって泣いてしまうと
『冗談かどうかもわからないなんて、馬鹿だよ』と言う
思い切り殴った後で
『痛いのは、あんたよりおかあさんだよ』
と言う
(痛いの、私だけど・・)
母親は私に『嘘をついた』と
ひどく怒るのに
何故か
母親は『冗談もわからないのかい』と笑いながら
本当か嘘かわからない屈辱的なことを言う
ここで私は、自分の『嘘』と言うものに嫌悪を持つようになり
ひどく自分を忌み嫌うようになり
『冗談も嘘』はもう言わないようにしようと思っていたけれども
もちろん母親たちからの
『冗談だよ』は続きまして
そのたびにひどく固まるようになりました
そして決定的な『嘘』は父親の嘘でした
父は『バレない嘘は嘘ではない』という格言を私に教えた張本人でありますが
なんと浮気ざんまいの人でした
家では済ました顔をしているくせに
裏ではどこぞの女性たちと浮気をしまくる
これが分かったのは中学の時でしたが
その時の感情は覚えています
『あーーー全部嘘つかれてたんだ・・』と
家での振る舞いや、偉そうにいっていた事、
全てが薄っぺらく感じて
どっと疲れたような感覚になりました
中学に上がり、周囲の『冗談と笑い』は一層高度になります
その頃の流行りのテレビは
誰かをいじることでの笑いだったと言うこともあり
誰かがターゲットとなって
その人が痛めつけられたり困るところを、笑い声が被さるというテレビは
どこかしら私をヒヤリと不穏にさせるものがあり
でもクラスメイトたちは
痛めつけられている人や困っている人を見ると笑うので
なにが起きているのか、混乱の中におりました
私は発達もあったため『真に受ける』と言う特徴があると思うのだけれども
それこそ
当時の概念としてあった『流行りの笑い』がよくわかりませんでした
いや、元々
『笑い』とは面白いところで笑うものですが
どうしても笑っている顔に
母親や当時の周囲に人たちの面影がダブって見えてしまうので
面白いと思えなかったのかも知れません
今でも、お笑いの番組を少し眺める時は
笑えない上に
分析的になってしまう
『ここが面白いポイントなのか・・』とか
『ここが笑うタイミングなのか・・』など観察してしまう
そしてよく笑えるという人を見ると
羨ましくてたまらない
しかし、一方で
『作り笑い』は一発で見分けられます
無理して合わせている笑いは、すぐ気づいてしまう
本当の冗談と笑いと、
相手を落とすような笑いは、笑い方にも違いがあって
相手を落とすような笑いは
どことなく冷酷な雰囲気を笑いながらもご本人は醸し出すようなところがあり
それを笑いと受け取る人がいるということも
またすごい構図だなと思うのだけれども
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とにかく『冗談だよ』と言われることのほとんどは
どちらかというと
相手を混乱させることの多いものが多いような気がするのは私だけでしょうか
高之瀬もよく『冗談だよ』というのですが
内容が、信じてしまうようなことばかりなので
意味を咀嚼するまでに時間がかかってしまい
私がトンチンカンなことをしてしまうのです
『冗談』とは
相手と自分の中では理解できる『ズレ』のようなものを
お互いで楽しむことにより成立するものだ思うのだけれども
この『ズレの味わい』のようなものが
どうしても理解できなくて困ってしまうことがあります
テレビを見ていても
少し捻くれたニヒルな言い回しが理解できなくて
止まってしまうことがあります
大概苦手とするのは
直接言ったら『野暮』だからと、オブラートに包んだような言い方です
男性が、女性に対して
よくやるキザな言い回しも全く理解できません
おそらくこれは
私の発達的なものが関係しているのだと思います
なので
気障ったらしい言葉や
周りくどい言い方をされると
頭のシャッターが『閉店するわい』と、おります
アメリカンジョークももちろん
自分の中で分解して繋げて、その意味を理解するまで時間がかかってしまうので
気づいたら周りは
もう笑い終えて違う話題に進んでいるということもしばしばです
しかし
カウンセリングでの現場を見てみると
案外、この『冗談や笑いがわからない』という人は多くいらっしゃるような気がします
特に『人を落とす笑い』というものが
今いち楽しいとは思えていないという人の多いことよ
『茶化す』と言えばいいでしょうか
これに嫌悪感や苦手意識を持っている人は割と多い気がするのです
話を聞いてみると
『子供の頃に、親が自分を蔑むことで周りに笑いをとっていた』とか
『教室で、誰かを笑い者にしているのを見て
なんだかしんどくなった』
とおっしゃる方は多い
そういう意見が割と多く聞かれるのは
カウンセリングだからなのか・・?
と思っていたので
実際に、外の大笑いしているところなどを観察していたのだが
笑いにも種類があるようで
人を落とすことで連帯感を感じる笑い=悪口じみたもの
と
趣味や知識などで
笑いあっているところとありました
これはもしかしたら
何に『快感』を感じるか・・の違いなのかもしれないなと
思いはじめました
実際、
誰かをターゲットにして、その人の欠点などを笑うという笑いは
『面白い』というよりも
組織の中での『自分の立ち位置を確認する行為』という感覚がします
『あの人って、バカよね』という他人を落とす笑いは
『自分は違う』という高みに立てる感覚も付随して
尚、一層 『特別感』を高めてくれるのと
また、組織・集団の中で『自分はそのターゲットではないからね』という
表明にもなります
つらつらと書いてしまいましたが
2者間での笑いと
集団での笑いの構成も違うこともポイントです
2人での関係で
一方が提示した笑いは、受け取り手の『リアクション』にかかっています
受け取り手が拒絶を示したら
それは笑いとして成立しません
そういった時に『冗談も通じないのか』という言葉により
尚一層、相手を落とすような関係性は
受け取り手になった方は、どんどん心を閉じていくのは自然なことだと思われます
人間関係のポイントとして
この『笑い』を共有できるかどうかということは
『相性』と同じくらいの『合う・合わない』として表出してくるのではないかと思われます
昭和の時代は
総じて、ドリフなど、上からタライが落ちてきて
その様子を笑ったものだけれども
それは、相手が痛い思いをしている=けれどもその痛みへのリアクションが面白い
というような捻れた笑いが多かった気がします
平成になって
その流れはあれども
少し違った笑いがでてきたことも見逃せません
キャラが濃い人物が、自分のままに生きることで
周りが戸惑う・・みたいなことも笑いとしてでてきておりました
また異性からの『回りくどい笑い』のようなものも苦手とする方も
多いなあと思います
異性からの『回りくどい笑い』は
『探り笑い』だからかなと思うのです
『探り笑い』とは自虐的な笑いで
相手がどこまでならOKかを探ってくる笑いです
『俺って、飲みすぎちゃうからさ〜〜』みたいなエピソードを
笑ってほしいと提示してくる笑いや
『可愛くないからさ〜』など
自分を貶めて笑いを強制してくる笑いも
なかなか難しいものがあります
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さて高之瀬との『笑いの相違』事件は
私が怒ったまではいいのですが
そこの怒り方で、私は『人格否定をする言葉』を言いました
それは『お前は笑いのセンスがない!!』といった言葉。
これにより
笑いのセンスが『どちらか一方にある』といった余計な闘争が始まったのですが
私の怒り方を表現する際に選んだ言葉が悪いので
謝りまして
そして改めて
『笑えないし、混乱するからやめてほしいのだ』と伝えました
そうしたら高之瀬は
『ユーモアを大事にしてたつもりでいたんだけど
受け取り手が冗談として受け取れない冗談は、笑いではないよね』となり
笑いは2人で共有するものだ
と意見が一致したために
その『混乱する冗談』は封印されました
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