共依存とは
関係性に依存し合うという二者のパワーバランスの事ですが
ご本人たちは、それを言われてもピンとこないということがよくあります
『依存してるかなあ・・』とか
もしくは『私は悪くない、相手が悪いんだ』とか
『相手が変わればいいんだ』などと
あまり自分に焦点が合わないということもあります
また共依存なんだ・・とある程度は理解することはできても
『じゃあ依存しなければいいんだ』と性急な理解にとどまり
相手のことを途端に相手にしなくなるということをしたり
(意図的な無視)
相手との関係性に依存していません(というそぶりを見せるというパフォーマンスだけをする)
といった対処法をとるぐらいに留まり
なかなか抜本的な関係性の修復に至ることが困難なことが多々あります
共依存とは、
一見アンバランスな関係性だと思われる方も多いですが
健全な共依存というものも存在します
健全な共依存は
『相手のことをこれだけやれてなんて幸せなんだ』
『相手が喜んでくれて幸せ』
と
心底思い合う関係性です
お互いがお互いのことを
思いやる関係性で、かつ相手の幸せが自分の幸せになるという2人は
とても相性がいいと言えると思いますし
また二者で完結できる関係性は理想とも言えます
この場合の幸せは、相手のことを思いやれるということが前提にありますので
相手が、自分と意見が違う場合には
『どうして、そう思うんだろう』とお互いに尋ね合うことができて
意見の相違を話し合い
落とし所や、収まりどころを模索していけるということができることになります
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が、しかしどこの本を読んでも
どうして二者の関係性が不健全な共依存になるまでに至ったのか・・という個人の背景まで
書いてあるものが少ないのです
私が見てきた不健全な共依存の関係性にはある特徴があると感じます
それは『自分の理想像』のようなものを
お互いに持っている場合です
『自分の理想像』とは、『こういう自分だったら自分が愛せる』といった
『自己愛像』になります
人は皆、自分の理想の姿をそれなりの思い浮かべるものです
そしてそこに向かって努力したり
苦渋を味わったりもしますが
紆余曲折ありで
自分の理想としていた自己愛像には遠いかもしれないけど
自分の限界はこれくらいが妥当かもな・・と
苦しいけれども
等身大の、付加価値を加えない自分の実態を目の当たりにして
ある意味『誇大妄想的な自分を諦めて』行きます
自分の能力はこれくらいだったんだな・・とか
自分の価値ってこれくらいなんだな・・とか
残酷ですが
それでも自分の価値をそれなりにきちんと判断していくものです
自分って、思ったよりも普通だったとか
自分って、思ったよりも浅はかだったとか
自分って、思ったよりも凡人だったとか
ほとんどの人間は、自分にある程度幻滅していくものです
それをきちんと通過していく過程が20代30代頃でしょう
『もっとやればできる』と
自分を大きく見ていたものが
周りとの調和や軋轢を経て
本当に大事にするべきものを見定めていく時期とも言えます
これがいわゆる
幼児的万能感との訣別になります
幼児的万能感は、『自分を中心に世界が回っている』と考える思考です
それを
{いや、自分は世界を構成する一部分にすぎないのだ}
と捉え直す思考が成熟した思考になります
私はこれを比喩的に
『天動説』から『地動説』への転換が起こる と呼んでいます
自分が地球として
地球の周りを太陽も月も星も回っているのだ・・
という世界観から
いや、地球がもしかしたら何かの周りを回っているのかも・・という
世界観に変わるというタイミングは
まさにコペルニクス的転換とも言える
我々が、回されているにすぎないのだ・・!と分かった瞬間
さぞその変換期を体験した人は驚いたと思うのです
我々こそが神から選ばれしもので・・という万能感からできた宗教が
地動説を唱えた人々を弾圧したというあの時代
さぞ『自分たちは神から選ばれたと思っていた人々』は怖かったに違いないと思うのです
それが
『自己愛像』を捨てる瞬間と
よく似ているなあと感じるのです
自分は特別なのだと思っていた世界観を
一旦捨てる
というか捨てざるを得ないとどこかで分かっていても
捨てることができないともがいている人が
実は、共依存に陥りやすいのではと臨床で感じるのです
では何故に共依存の関係性になってしまうのか
それはお互いの『自己愛像』に起因すると考えています
女性の場合は
『愛されて必要とされる特別な私』という自己愛像が強固な人が多いのです
いつでもどこでも
『愛されて必要とされる私』を樹立していないとダメなので
『愛されて必要とされる私』を形成して維持し続けてくれる相手を望むのです
『愛されて必要とされる私』は
相手が自分自身を受け入れていたら、自分は必要とされないので成立しません
なので、結果として『自己愛像を成り立たせてほしいと相手を探している人』を選ぶしかなく
パートナーとしては『欠乏している男性』を選びがちです
一方の男性はというと
自己愛像としては『力のある俺』というものを求めている方が多いのです
そもそも男性の方が
世界観としては複雑なものを持っているような気がしますが
それでも大まかに見てしまえば
『力のある俺』なら自分のことを愛せる・・という男性が多いのです
しかし『力』といっても多様でありまして
腕力
財力
知識力
などがあります
女性は『腕力のある私』を求める方は少ないので
女性が自己愛像として求める像は、割と範囲が狭い感じがしますが
男性は、そういう意味では
自己愛像として求める範囲がそれぞれに散らばっているのかもしれないなと思っています
けども、その男性の自己愛像も
大きくいってしまえば『愛されるための虚構』と言えます
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お互いがお互いの『自己愛像』を成立させるために
お互いを必要としていたら・・と考えると
愛されて必要とされたいから、『愛される私』を維持してくれと相手に願う女性と
愛されたいから『自分の虚構』の世界に付き合ってくれと願う男性
これはもう
なかなかお互いに修行としか言いようがない
どちらかが力尽きるまで
くれくれ合戦は続き
そしてその『くれくれ合戦』を『共依存』と呼ぶのではないかと
密かに私は思ったりするのです
実際に精神科医の先生方は
『底つき体験』が必要・・と言います
それは
もう相手から『何ももらえない』といった体験をして
何も頼るものがないと理解した瞬間に
自分の等身大がわかり(自己愛像も魔法が解けて)
等身大の自分というものは
そりゃあ誰しもがちっぽけな弱き存在なので
自分を悔やみながら
誰かに本気で助けてほしいと願い
そして、周りの誰しもが『もがいているんだ』と理解をして
自分も、もがいて生きていくものなのだ
と
心許ない自分で生きていく覚悟をしていくにつれて
色々な出会いで学ぶことも増えてきて
ますます自分がいかに『特別な自分像』にしがみついていたかを振り返り
他者への理解と
ねぎらいができるようになり
そして自分自身への本当の労わりができるようになる
・・といったところまでしないと
回復はむずかしいよね
というのが『底つき体験』であります
この底つき体験は非常に厳しいもので個人で向き合わなくてはならないものですが
しかしこれしか無いよね・・という見解もあり
だからこそ、その時に出会う、同じ境遇の人たちで支え合うという自助グループが
有効でもあるのです
共依存関係と
自己愛性パーソナリティ障害は親和性があり
共依存関係に陥りやすい人は
ほとんどが自己愛が歪なパーソナリティを持っていると感じます
戦後、私たちは身分制度も崩壊して
日本国憲法のもと法的にはどのひとも一律に平等だとなったけれども
しかし心の中では『差別』を追い求めているような
どこかしら暗い影のようなものにつきまとわれています
自分が凡人で普通だとは信じたくない
といった風潮もあるような気がします
そりゃちいさな頃から『プリンセスもの』『戦隊モノ』ばかりを
見ていたら
何か、特別な違うものになりたいという願望は大きくなってしまうのも
仕方ないのかもしれません
けれども実は、個人的な世界観を転換して
『地動説』に至ったら
つまらない普通の自分を受け入れなくてはならないのか・・
そんな世界、受け入れられない・・などと悲観しなくて良いのです
その先に
実は大きな大きな『受容』の世界が実は待っているのも本当です
この大きな『受容』の世界は
『循環』の世界でもあります
大いなる存在を体感として理解するという段階が待っています
そこへ来ると
もうほとんどのことは、あまり不安がない世界になります
いわゆる執着を捨てた世界
そこはとても安心でもあるのですが
それはまた別の機会に😊
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