悟ったかどうかを
老師様(臨済宗では、後進修行僧の指導する力量を具えた禅僧を「師家(老師)」といいます。 脈々と伝わる禅の法灯を継承している、嗣法者のことで、師家が専門道場(僧堂)の主宰し、またひいては、大本山の管長になる資格を有することができます)は、
修行中の人に対して確認するために
禅問答というものを使って
本当に、その『域』に到達したかを見極めます
その禅問答の問いのことを『公案(こうあん)』とも言い
この問いのことを一心に考え続けることや
その答えが降ってくるまで『無』の境地になるように
修行するという道があります
また、この公案を求めつづめるということも修行だとされています
さて
この公案で有名なものが二つあります
以前にもブログで何回が紹介したものですが
まず一つ目は『空に月はいくつ浮かんでいるか』 という問い
そして二つ目は『犬は悟れるか』という問い
この問いは
最初に老師様から修行者に対して問われるものでありますが
どちらを問われるかは老子様次第というところであります
私の場合は『月』でありました
カウンセリングの進め方は
まるでこの『公案』のようだなあといつも思うところがあります
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カウンセリングを進めるにあたり
皆様によくブログと『クライエント様からの声』を読んでいただいておりますが
それぞれに『自分と似たケース』と『自分とは違うケース』というように
選別されて読まれていることと思います
自分に取り入れられる新しい視点とか
自分が気づかなかった部分があるのではとか
照らし合わせて
読んでみることはとても大事だと思います
でもその上で
やはり 『自分の課題』というのは唯一無二なのだと思っておかれた方がいいよな・・
と思うのです
まずは『自分の課題』というものに
なるべく沿った形で素直にそれを捉えられるかということがあります
自分の課題というのは、自分でそれに直面するのはとてもむずかしい
例えば『人に意地悪したくなってしまう』とか
『嫉妬してしまう』とか
『依存したくなる』とか
『怠惰になってしまう』など
自分にその『根源』がある場合
その『根源』はどうして『表に現れてくるのか』ということを
素直な気持ちで向き合うということは
一種のめちゃくちゃしんどい修行よなあと思うのです
周りの人と
どうしても調和が取れない・・という場合
『自分に原因がある方』もいらっしゃいます
その原因を素直に受け入れる『器』を創り出すということは
自分自身への挑戦でもあり
自分を信じて見ようとする『信心』から為るものでもあります
自分を信じられないと
自分の暗部を見ようとする勇気はなかなか出ないようです
そして
大事なことは『自分の物語』と他人の物語を混同しないことです
他人の回復劇をそのまま踏襲しても
なかなか思ったような感覚は得られません
自分は
自分の『回復劇』という物語がきちんと目の前にあるのに
『他人の物語がいい・・』と
他人の回復のされ方を真似しても仕方ないところがあります
それが、この『禅の公案』なのだと思っていただきたいなあと思うのです
『犬は悟るのか』と問われていて
それが自分の課題だと言われているのに
『月は空にいくつかしら・・・』なんていうことをしていても
仕方ありません
それでもって、空を見上げてため息をついて
『ちっとも良くならない』と言われてもなあと思うのです
あなたの課題は『こちらですよ』と提示してあるのに、違う物語を夢見ている
もちろんカウンセリングは
この時間を『サービス』としてのお金をいただくものなので
好きにお使いになるのは大前提ではありますが
周りの方(家族とか)に影響が出るのはなるべくなら避けたい
・・と思うのは私のエゴなのでしょうか
私のスーパーバイザーはめちゃくちゃその点はドライで
もう、そういう自己憐憫的な話を眉ひとつ動かさずに聞いて
最後にたった『一言』だけ発してクライエント様に帰ってもらうということをする医師であります
『無駄なエネルギーを使うな』というのをよく言っていて
私が教えてもらった、このトラウマの治療法としての記憶を戻す方法や
癒す方法もエネルギーをめちゃくちゃ使うので
『無駄撃ちするな』というのです
確かにこれは私のエネルギーではない
いわば『お借りしている力』なのですが
もちろん、そこにお願いするエネルギーというのは
自分のエネルギーなわけで
『お願いするエネルギー』もめちゃくちゃ大変疲れるわけなのです
何が疲れるかというと
まずそのクライエント様が欲する要求と
こちらが『まず課題をきちんと見たらいいと思うのよ』
がずれている場合
よく有名な(日本で好まれる心理療法ではありますが)
『傾聴』というものがあります
カールロジャースが提唱した積極的傾聴というので
『相手も気持ちを汲み取る』というために積極的に問いかけをしていったりして
共感したり無条件の肯定的配慮をする・・という療法がありますが
これは
トラウマがあるひどく外傷的に傷つけられた経験のある人に
治癒をもたらす効果が期待できる方法でもあります
仲間外れにされた
親から(性)暴力を受けてきた
いじめ
などの体験でもって心に傷ができてしまい
その傷を癒す方法としてはとてもいいと感じます
しかし、この方法は
最近の人たちにはあまり向かないよね・・というのが
今の治療者たちの本音でもあります
親に甘やかされて育てられた
過保護
自分を支える力が育ってない
不安に持ち堪える器が小さい
という方に、『傾聴』という心理療法を用いると
『自己愛が肥大化』する傾向にあります
むしろカウンセリングや医療の支援を『親代わり』にする傾向が強まり
『人生の意思決定』を支援者や治療者に委ねるようになります
もし、その場合に
治療者がお金に困っていたりすると
通ってもらえることは経営的にも助かるからと
ズブズブの関係性に陥り
共依存のいっちょ出来上がりにあるわけであります
だから心理の支援者、治療者というものは『お金』を目的として
経営の旗🚩をあげる場合は注意が必要です
禅の公案というものは
その点よくできておりまして
まずその方の課題を老師様から出され
余計なことを話したりしたら『帰りなさい』とすぐ寺を出されてしまい
またよく答えを求めないで
借りてきたようなことを話すと
『否(いな)!』とピシャリと言われ
帰されてしまい
『とりつく島を与えないというところ』が
実はとても大切ということもきちんと分かって場が設定されているということなのです
もちろん
ひとつの公案に何年もかかることもあり
そして
その公案の答えは実は『一つではない」
何故、そう答えを出したのかを
詳しく述べさせられるという問答のテストみたいなこともしなくてはならない
そしてそこで独りよがりな答えは
またもや『否(いな)!』と言われて追い返される
かといって
その公案を模索している時に
(それは確か瞑想している時に お寺の鐘がどこからともなくなっているのが聞こえてきていて
瞑想中の修行者の後ろを通りがかった老師様が
『この鐘の音はどこからきたものか』といきなり問いかけ去っていき
また鐘の音が鳴っているところを瞑想していた修行者の後ろを
通りがかった老師様が
再度『この鐘の音はどこへ行くのか』と問い
その瞬間
修行者は『全てを悟ったのです』)
というように
いきなりその瞬間が訪れるということもあるので
『偶然が重なり合う』ということにより
治癒したりするということはよくあるのだが
その『偶然』も
『人事を尽くして天命をまつ』
の中の
『人事』というスタートラインにまで
まずは辿り着くまでがかなり大変だという昨今
目の前の『一見つまらなそうな課題』こそが
実は大いなる大切な一歩だということを忘れないで
その自分だけの課題を信じてほしいなあと思っております
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