見据えた先

コントロールワード

わたしは小さい頃によく『優しいね』と言われてきましたが

その言葉をわたしに投げかけてきた人たちの表情は
わたしにとっては しっくりくるものではありませんでした

なんとなく『裏』があるという感じ。

大抵、わたしが『優しいね』と言われるのは
弟の面倒や障害児と一緒に遊んでいると言われるのです

その時にその『優しいね』という言葉を言われると
腹の底からじわじわと『やるせなさ』と『憎しみ』みたいなものが湧いてきます

だから
ちっとも、わたしは優しいねと言われても
むしろその言葉を自分に向かって言ってくる人に対して
軽蔑に近い感覚を持って見ていました

一体、わたしの何を見ているんだ

と思っていました

こんなに苦しい感覚を持ちながら障害者と生きていているのに
優しいわけがないだろうと思っていました

本当の優しい人は
障害者といて心の底から差別をしたりしない人なのだろうと思っていました

わたしは子ども心に、自分は差別をしているから
とても薄汚れていて醜い心の持ち主なのだと思っていました

差別の感覚を持つ自分を生きていくのは
小さいながらとても辛いものでした

わたしの差別の心は
『普通の家だったら こんなに叩かれることはないし
 母親も普通の心を保てるのに違いない』

『全ては弟の障害が悪いのだ』

という一方的な考えが『差別の心』でした

わたしの心の前提は
『健康で健全な状態が当たり前』というものでした

そんな、健全な状態なんて奇跡みたいなものなのに
それが当たり前だと思っていたことが まずの間違いでした

だから欠けている不全な状態を責めるという思考になったのが
苦しみの発生源だったと今になればわかります

そもそも人間は非完全な存在で 
心というのは常に定まっていなくて 
よくも悪くもなるという状態

つまり『無常』が人間なのに

何故『健康で健全な完全無欠な状態』が『人間』とされてしまうのか。

そうじゃあないよ
と神が笑っていそうです

だから 神から
わたしたちには『時間』という『老い』が
セッテイングされているのかもしれませんね

完全無欠じゃないよ

無常なんだよ、と。

話は戻りますが

『優しいね』という言葉の奥にあった『詰まったもの』は
いまだに心の中で
吐き気がするくらい嫌なものです

なんとなく わたしに対して
『損してるね』と言われているようなものを感じてしまうのです

『優しいね』と言われたら
『お前が優しくしろよ』という反発心も出てきてしまいます

優しくあることは
苦しくて辛いものだと思っていたりもしました

ある条件下でコントロールや
『混乱する言葉』で催眠を入れられていたりすると

分裂して相反する心が出現しがちになります

なので、こういった自分ではよくわからない『心の動き』の下に
巨大なトラウマが隠れていたりします

先日パラリンピックのマラソンが、自宅の前を通るということで 

24時間テレビを苦手としていた私ですが
パラリンピックの選手だけは見れるのならば見てみたいと思いました

結果 チラリとだけ見たにもかかわらず
ものすごく荒れた自分がおりました 笑

選手はメダル🏅を取りたいとか色々な目標を掲げてはいたのでしょうが 

ほとんどの選手が戦っていませんでした

『他人との奪い合い』が一切見られないレースでした

目眩がするくらい清々しい『自分との戦い』をされていまして

『他者と戦っている』という選手がほとんどいなかったのです

オーラや雰囲気は『孤高』な感じでした

最初はぎこちなかった沿道の方達の拍手も
『その選手の孤独』に対してのリスペクトといたわりの音に聞こえました

たまたま一人の選手が立ち止まり
うずくまったのが ちょうど目の前でした

そうしたら拍手がすっと止み 道は静寂に包まれました

うずくまった選手が起き上がるまで 沿道の方達は皆、拍手をやめ
固唾を飲んで見守っているようでした

そしてしばらく
その選手がふくらはぎなどを伸ばして走り出した時、さっきよりもっと大きな拍手を皆が送っていました

すごいなあと思いました

観る方も
観られる方も
戦いを見据えているわけではないような感じでした