あと数週間後の10月13日にある映画が上映されると言う
その映画の題名は『月』と言う
題名の意味はさておくとして
この映画のモチーフというか、何のオマージュかというと
2016年に発生した『津久井やまゆり園』の『相模原障害者殺傷事件』で
あると思われます
2016年、今から7年前になりますが
実はこの『津久井やまゆり園』の場所は個人的にも縁があった場所でもあり
だから事件のことはほとんど目にしないように、テレビからも本からも
何も情報を入れないようにしていました
ただ、この時期になり
トラウマもそれなりに落ち着いてきたという頃に
この映画の予告が目に入ってしまったのだ
予告というのは長くても数分のものだけれども
その映像の端々からは
当時の子供の頃に感じてきた『圧倒的な悲しみと絶望と恐怖感』があり
見てはいけない幕のあちら側が
ああ、見えてしまった・・
というような感覚を思い出しました
私の小さな頃は、この津久井やまゆり園のような場所とともにありました
重度の喋れない歩けない車椅子の障害者の人々
自分を叩きまくる障害者の人々
ヘッドギアで壁に激突を何回もする障害者のひと
色々なところから聞こえる呻き声や叫び声
引きずられていく障害者
それらの場面が刺激されて出てくる
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この映画のすごいところは(予告を見る限りだけれども)
障害者の人たちを、本当に障害を負った方々で撮影しているところです
今までたくさんの障害者をモデルにしたりした映画あったけれども
本当の人を撮影したのはこれが初めてではなかろうか
(ダウン症などは見たことあったけれども、ダウン症以外の重度の障害者ってのは
見たことがない)
普通の人が演じる障害を持った人々というのを見るのが
私は本当に嫌で
(こんなもんじゃないんだ)といつも心の中で泣きたくなる
だから、予告が
もう本当にリアルで
私がちいさな頃に感じた感覚が
閉まっていた心の壺から漏れ出てきた感覚があります
(『語られたくない事実』の内部へと深く潜り込んでいく映画)
とある大手の出版社のプレスが評していましたが
まさに、その『語られたくない事実』というのは
まずは『何なのか』ということを自分で分かる必要があります
公式サイトには
監督の石井裕也さんの
『この話をもらった時、震えました。怖かったですが、すぐに逃げられないと悟りました。撮らなければいけない映画だと覚悟を決めました。多くの人が目を背けようとする問題を扱っています。ですが、これは簡単に無視していい問題ではなく、他人事ではないどころか、むしろ私たちにとってとても大切な問題です。この映画を一緒に作ったのは、人の命や尊厳に真正面から向き合う覚悟を決めた最高の俳優とスタッフたちです。人の目が届かないところにある闇を描いたからこそ、誰も観たことがない類の映画になりました。異様な熱気に満ちています。宮沢りえさんがとにかく凄まじいです。』
とコメントが書いてあった
また、プロデューサーの長井龍さんの
『目の前の問題に蓋をするという行為が、この物語で描かれる環境に限らず、社会の至る所に潜んでいるのではないか、という問いが映画『月』には含まれています。障害福祉に従事されている方にも本作をご覧頂き「この映画を通して、障害者の置かれている世界を知ってもらいたい」という言葉も預かりました。本作を届けていく必要性を改めて噛み締めています。そして、映画製作を通して、この数年で障害福祉の環境が変わろうとしている現実も目の当たりにしました。そのこともまた、社会の持つ可能性のひとつだと信じています。』
とコメントが書いてあった
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この映画を持っても尚、語りきれないのだと思う
むしろ
それは
語られるべきことではなく
人、1人1人が
それぞれの『心の深淵を覗く行為』のようなものなのだと思うのだ
その自分の『心の深淵』を覗く時に
自分自身の『本当のありのまま』が見えるのだと思うのだけれども
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重度の脳性麻痺だった弟が生まれたのは
私が2歳になった時でした
そこから私は、言葉にできない世界を見てきました
カウンセラーの私が言うのはおかしいのかもしれませんが
見てきた世界は
すごく苦しくても『死ぬことすらできない』という
『生き地獄』が広がっていて
むしろ『死ぬことを自分で選べることは、むしろ救いなのでは』とさえ
小さな頃は思っておりました
一生
生まれてからベッドに縛り付けられて叩かれたりしている人を多く見てきて
『死ぬことすら選べないと言うのは何故なのだろうか』
と慄いておりました
生きることが『善』とある現代において
全てが生きることがいいことなのか?と言う疑問もまだ解消していない
ただいずれにせよ
自分の人生で何かを選択できると言うことは
むしろめちゃくちゃに恵まれているよね・・
と私は学習してしまったので
最後の最後まで『救い』がある自分のことを
むしろ申し訳なく思っていて、それは今も継続して申し訳ないと思っている
これを罪悪感と言うのかもしれないが
むしろ、この罪悪感は無くそうとは思っていない
いいのだと思っている
苦しくてもいいのだ
ずっと苦しいままで生きていけばいいと腹を括ったのだ
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私の弟は、もちろん昔の家族(父、母)と暮らしているのだが
たまに実家に帰ると
話を少し交わしたりもするのだが
その時に
『ボク 施設で叩かれるんだ ほっぺを 何回も 毎日』
と言っていた
その時に
私はある心象風景なのか(分かりませんが)
泣いている鬼が見えます
『ふーん そうなんだ』と
弟の話を他人事のように聞いている私は
(叩かれもするよ 何回言ってもわからないし
女の話ばっかだし(弟は女の人好き)
呂律は回らない喋り方でイライラするし)
と言う感覚と
でもそれを思うと
泣いている鬼が見えるのです
大粒の涙を流してひとりぼっちで身悶えしている鬼
眉毛は八の字にひん曲がり
大粒の涙はあれよあれよと、鬼の目に湧いて泣かれ落ちていきます
アワアワと泣く鬼は
恐らく、私の一部なのか
もしくは私自身なのか
これが見えると、私もいてもたっても居られません
どんなに素敵なカフェにいようと
ねこと戯れていようと
買い物していようと
この鬼と同化して
涙が出てきてしまうのです
この鬼は一体何なのでしょうか
ずっと泣いている気はするのです
ずっと1人で苦しんでいる気はするのです
でも助けられない
救いの手もない
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スーパーバイザーは、この私の苦しみを『恵みだ』と言う
それを『葛藤』と呼び
これは宇宙の果ての深淵を覗くようなものだから大事になさいよ
と言う
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リアルだなあと思ったことの一つに
これはネタバレになってしまうが(ネタバレ注意)
予告を見るとどうやら主人公はその施設で働くが妊娠をするようなのだ
そしてその時に
後々に事件を起こす男と出生前診断の口論になるようなのだが
『健康な子供を望むってことは、そう言うことだ』
と言うニュアンスのことを言われる
私も自分が妊娠した時に
これをよくよく考えて
本当にしみじみ涙を流したのを覚えている
結局
私は出生前診断をしないで、『ええいままよ』と産んだけれども
もし生まれる前に
産む子供に障害があったと知ったら、どうしよう・・
と言うことはずっと頭の片隅から離れませんでした
だから事前に『何かを知ること』を敢えて選ばないできたところがあります
禅の先生にも
この問いを尋ねてみたところ
『生まれてから考える』といった、至極何の変哲もない答えが返ってきたが
問題なりが
自分の前に存在したら
それをとにかく考えればいいのだ
と言うことなのかもしれないが
その『問題が存在した時に』どう『振る舞うか』の
振る舞い方が
イコール=私自身 なのだろうと思うのだ
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10年ほど前に、私はこの『障害』と言う葛藤があまりにも苦しくて
これについて勉強をしていた時期があるのですが
ここで出てきた概念が『優生思想』と言うものでした
ヒトラーも用いていた思想としても有名でありますが
(ヒトラーの場合は極限まで行ってしまったけれども)
人が『健康に生きたい』と言うものは自然なもので
でもその『健康』と言う意味合いは広すぎて
『健康であるには幸せであって、それには過不足なく色々所有ができて
苦労をしなくてよくて
人に恵まれていて・・』などと際限がなくなると言った面を持ちます
この際限の無さは
ある意味『人間らしさ』みたいなものなのかもしれないけれども
その『人間らしさ』って
なん何だろうか
ここまで書いていると
また、鬼が出てきました
まだ鬼の目からは大粒の涙が流れています
今度の、この映画は
鬼と一緒に見に行こうと思っています
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