
なぜ「他者の目」を気にすると創作は苦しくなるのか
― ラカンの〈超自我〉と〈欲望〉から見る創作の自由 ―
「評価を気にすると、描けなくなる。」
「他人の目を忘れて、自分の好きなものを作ると楽しくなる。」
これはよく聞く言葉です
でもなぜそうなるのか
気の持ちようの問題だろうか?
それとも性格?
今日はこれを、ラカンの理論を使って整理してみたいと思います
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まず前提『人は他者の欲望の中で育つ』があります
子どもは生き延びるために、
「私はどうすれば愛される?」
と無意識に問い続け考え続けます
このとき、自分に向けられる『他者の目』は世界そのものです
だから私たちは自然と
他者の欲望を内在化する
これが超自我の基礎になります
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おさらいになりますが、超自我とは何かというと
超自我とは、
『内側に入った他者の声』
・もっと上手く
・もっと評価されろ
・まだ足りない
・勝て
ラカン的には、
超自我はブレーキではありません
むしろ
「もっと享楽せよ」
と煽る存在です
つまり、止めない
追い立てることを目的とする存在です
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そんな仕組みの中で、他者の目で創作すると何が起きるかというと
創作が他者の目に向いた瞬間
構造はこうなります
① 「評価される私」を想像する
② それを達成しないと危険だと感じる
③ 不安が上がる
④ 描くことが“証明”になる
このとき創作は
欲望の表現ではなく、防衛になります
つまり
・負けないため
・恥をかかないため
・価値を証明するため
というフェーズに移行して行き
ここで超自我が入るのです
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でも楽しければいいじゃあないかと、思いますが
実際には楽しくなくなります
なぜ楽しくなくなるのかというと
他者基準になるからです
創作は常に比較の場に置かれる物になります
すると内部でこうなる
「これで足りるか?」
「もっと上がある」
「評価は?」
不安 → 緊張 → 完成 → また不安
これは享楽の回路に近いのです
振れ幅が大きい
終わらない
だから疲れる
・・煽る存在が大きくなっていきます
では「自分の好きなものを作る」とは何かなのかということになりますが
よく言われるのが
「他人を気にせず、自分の好きなものを」
ですが
これは自己中心になれという意味ではないと思っています
構造的にはこうです
① 欠如に触れる
② それを消そうとしない
③ 形にする
ここには比較がないのです
証明がない
あるのは、
探求だけです
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ラカンの精神分析の構造を理解し始めると
欲望と享楽の違いがわかり
そして自分の本当の欲求に気がつくようになります
それには順番通りに進まなければなりません
ここが核心の部分です
享楽は
=欠如を消したい
欲望は
=欠如を辿る
享楽は鎮静剤
=欲望は探求
他者の目に向いた創作は、
「評価されたいのに見られたくない」に近づく構造になり
自分の好きなものに向いた創作は
「辿る」に近づくという構造になります
なぜ「好き」は楽しいとは何なのかという話になりますが
好きなものに向かうとき
超自我の声は弱まるという性質をもつからです
なぜなら
『証明の構造が薄れるから』
そこには
勝ち負けがない
比較がない
あるのは没頭
没頭は振れ幅ではなく、持続
だから疲労の質が違うということがあります
しかし現実の世界では完全に他者を消すことはできません
ここが誤解されがちなところです
『人は完全に他者から自由にはなれない
言語を使っている以上、
他者の世界の中にいる』
だから問題は、
他者を消すことではなく
『他者の目に飲み込まれないこと』
もし創作活動が
「勝つため」
「評価されるため」
に傾いた瞬間、
身体が止まる人が多いのです
(ぜひ観察して見てください)
白くなる
頭に血が登る
これは超自我が前面に出た状態です
創作が証明装置になったときに
欲望は引っ込むという構造を持ちます
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では最後に創作が自由になる瞬間についてですが
創作が自由になるのは、
「勝たなくても存在できる」
という感覚が身体に入ったときです
そのとき
描くことは戦場ではなくなり
音楽を創り出す事は、断絶を超える行為です
探求の場であることを許された『探求の心』は
後々続く、灯火のようです
他者の目を気にすると苦しくなるのは
創作が超自我の装置に乗っかるからです (ラカンは結び目が固くなると表現していました)
自分の好きなものを作ると楽しくなるのは
創作が欲望の回路に戻るからです
享楽は振れ
欲望は持続
勝っている私ではなく
立っている私からしか
本当の創作は生まれないのかもしれないなあと思っています







