私たちが生きる世界は、多層的で多面的、そして複雑に絡み合っています
このブログでは、人間の欲動や孤独、そして自然との関わりについて考察してみます
どれが善なのかということも
突き詰めて過ぎると、潔癖となってしまい
悪にコンバートしていくので
一番よろしいのは中庸であり
何物(者)にも囚われないくらいがいいのかもと思うのですが
しかし、そうしますと
囚われるのはただただ『自分』にでありまして
そこで噴出してくるのは『自分の癖』のようなものです
私たちの中にある『癖』とも言える欲求のエネルギーは、
フロイトが言う『欲動』に近いものです。
欲動とは、私たちが本来持っている内的なエネルギーであり、内部から突き上げてくる力のようなものです。
『欲動』というと、顔をしかめられる方も多いのですが
このフロイトの言う欲動は
元々、人間が持つ恒常的な力で、内部から働きかけてくるものであります
この欲動は、
何故顔をしかめられたり、敬遠されたりしてしまうかというと
性的な欲望と近しいところにあるからです
欲動は、内部から突き上げてくるようなエネルギーであります
そして人により
そのエネルギーの現れ方、表出の仕方は違いがあります
生理学の立場で考えると
外部から、生体にもたらされた刺激は行動として外部に放出されます
刺激が外からくる場合は『そこから逃れる』ために筋肉などが運動させられて
それが蓄積されることにより、身体的な変化が促されます
生まれた子供に、親が触れる
などの刺激は
生まれたばかりの赤ん坊は、自分自身が、どこのあたりまでが自分かをわかっていないので
触れられるということで
初めて自分の『一番外側』を感知することになります
赤ん坊は、生まれたばかりの時、自分の身体の境界を認識できていません
しかし、周囲の人が触れることで、初めて自分の身体の『外側』、つまり皮膚を感知し、自分という存在を少しずつ認識していきます
その感知するものから、『自分』という外側を覆う膜(皮膚)を感じることで
初めて自分の中に『何か包まれているものがあるようだ』として皮膚を概念として取り込むのです
また赤ん坊は、生まれてきてすぐに
『不快感』を感じます
それまでは温かな、重力をさほど感じない場所で
空腹も感じずに、ほの明るいところで、微かに聞こえてくる音を聞きながら
ゆっくりと包まれていたのに
いきなりの苦痛と(生まれる時に赤ん坊にかかるストレスは半端ないらしい)
それがやっと終わったと思ったら
身体中に感じる重力の感覚と
光と音と
そして訳もわからない『空腹』の感覚
それらを感じつつも
周りから庇護されて
どんどんと周りからの刺激を受け入れて
世界を自分の中に取り込んだら
それをどんどん身体の中に(主に脳でだが)
『世界』として構築していくのはすごいことなのです
外部からの刺激を受け入れれば受け入れるほどに
取り込まれた刺激は『混沌』として一旦は内部に流れ込むが
その『混沌』を身体と脳は連結して
その混沌を咀嚼し、分類し、連結させたり、連動させたりしながら
混沌を混沌のままにしておかずに
『外界(世界)』として認識できるレベルにまで持っていくのです
絶対音感や、色をどれだけ認識できるかという才能は
生まれつきだと言われていますが
一方で、たくさんの音をどれだけ聴かせるか
また色をどれだけ見せるかによって
脳が、そのカオスな情報を
多層的で多面的な分類をしていくので
結果的に先天的ではない、後天的に獲得できる才能としても
あると言われています
大事なのは『いい音』だけを聴かせるのではなく
たくさんの音を聞かせることなのですが
例えば雑踏の音
パチンコ屋の音
電車 叫び声 など不快感を感じる音も全て遮断することなく
聞かせることで
その絶対音感のような『勘』は形作られていくのだと言います
また色もそうで
たくさんの色を、
また色は時間帯によっても変化するものなので
それを存分に感じさせることで
後天的な『勘』としての才能が出てくるということもあるのです
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外部からの刺激が内部に入ることで何が起こるかということを書いてきましたが
(少し話がそれてしまいましたが)
一方で、内部からのオリジナルな欲動というものがあります
欲動は満足させることでしか、収まりません
欲動の目的は『達成すること』です
欲動は、自らを満足させよと促してくる『力』であるので
これをなんとかするならば
欲動源泉にある刺激状態を排除することによってしか達成されません
欲動の源泉は、身体的な過程であるので
その刺激がどう感知されるかということは
『心理的に自らを満足させたい』ということでしか自分では理解できません
・・その欲動が、自らも理解しやすい範疇のものであれば
見当をつけることはできるかもしれませんが
おおよそ自分では分かりづらいのかもしれないというところであります
むしろ、他人の方が
『欲動』を察知しやすいのではと思います
自分と違う個体からの独特のエネルギーを感じるからです
ご本人は、自分のエネルギーと同化してしまうので
なかなかそれを客観的に捉えづらく
例えば、自分の欲動のエネルギーを感じてみたいのであれば
瞑想などをして自分のエネルギーの動き方を観察することで
もしかしたら客観的に感じることができるかもしれません
欲動には、いいも悪いもありません
ただの『運』かなと感じることもあります
思春期に、多くの人はその『欲動』を自らの中に感じることがあります
なんとも言えないエネルギーの放出と言いますか
今までの家族ではなく
自分と生きる他者を求めるためのエネルギーで
それは人間が遺伝子を持って、命から命を受け継がせるために
インプットされてきたもので
ある一定の時になると
作動するように働きかけるもので
それによりまた人は活動的になったりする訳なのですが
全員が全員、同じようなエネルギーを持っているわけではなく
人間が人間たるものとして生きながらえていくためには
多層的で多面的で、かつ、多様性を用意しておかないと
一つの個性だけでは、生物は対応しきれないので
これだけバラエティに富んだラインナップを用意されて
それぞれの個体に割り振られているのだなと
感じるのです
『欲動の振り分けられ方』はまさに神の采配のようなもので
もちろん人間がコントロールできない範疇ですので
不思議だなと感じるのですが
フロイトは、人間が持つ欲動の多様性を『性エネルギー』に関連づけて理論を展開しました
その内容は議論を呼び、一般に受け入れられにくい側面もありましたが、欲動が持つ多様な形態についての先駆的な洞察でした
(それはSとかMなどと大変に面白い分野でもあるのですが
またそれは別の話なのでいずれ書くとして)
その分類は、かなりの批判と不可思議さと
単体では、確立しきれない展開を必要としており
おおよそ一般的に受け入れられやすくはない説でありました
そして欲望は
『それだけじゃないよね・・』と言った声が当時は多くありました
それを受けてフロイトの弟子のアドラーが新たに付け加えたのが
『支配欲』というものでした
支配欲とは、相手をコントロールしたいという欲望です
そして支配欲の本質は『さみしさ』と『孤独への恐怖』です
人間は、自分の中にあるさみしさを認められないと
うっかり相手を支配したくなります
子供が例えば遊んでばっかりいてちっとも勉強しない
といった場面で
親が子供に対して
何かと小言を言いたくなったりするのもそれの一貫です
え・・?そうなの?と思う方もいらっしゃるかと思うのですが
実は子供は『勉強しない』という選択をしているので
そこで生じる課題は、子供が解決しないとなりません
子供が課題を解決する力をいつ持つかは子供次第です
また、『問題を問題と捉えられない』というのも子供自身の問題です
そこで子供が解決方法を見つけることを先延ばしにして『困った』という状況になったとしても
それもまた子供の課題だといったのがアドラーです
これは理屈ではわかっていても
なかなか受け入れ難いのですが
親の方の、子供に対する接し方を観察してみるとある特徴があることに気が付きます
それは親自身も『孤独と向き合えない』という課題です
例えば、自分自身が『必要とされていないと不安』という
孤独感を強く感じている人は
子供がいることで『生きがい』を感じますが
その『生きがい』が居なくなったら・と考える場合の
孤独感を回避したいがために
『育ててあげてる』という恩着せがましさを子供に感じさせることで
子供が自分から離れていかないようにする
といったものです
一方で、このまま子供をそのままにしておいたら
自分に迷惑が及んで、それは私の環境を脅かしかねない・・
そうしたらゆくゆくも、この子供をずっとみていかないといけないのかもしれない
という自分の社会を脅かされるかもという不安を持っている方の場合は
『いつまでも巣立たない子供がいたら、周りから、
非難されるかも・・』
という孤独感を刺激され
そして、そうなった場合に感じる『さみしさ』を回避したいがために
どうしても支配的、指導的になってしまうのです
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臨床で、また多くのカウンセリングで
この『孤独』を恐怖とする人々をみてきましたが
どのかたも何故か、一様に『自分はさみしい』とお認めになりません
何故か
寂しい、淋しい、さみしいと思うことを
『負け』だとすら思っていらっしゃる節があります
だから、なんとかして
『さみしさ』を感じないように
さみしくない環境を作り出そうとして無理をするのです
それは『相手が自分から離れないように画策する』ことで
一旦は仮の成功となるのですが
それが癖となり
習慣となり思考となり
そして人格性を帯びてきてしまいます
癖となり、習慣となり、思考となり、信念としてしまうと
その一連の『さみしさ紛れ』の流れが
欲望として人格性を帯びてきてしまうのが恐ろしいところです
『昔は、こんな性格じゃなかったんだけどな・・』という人は
自分の中の『さみしさ』が暴れて
それを感じるのが苦痛なあまり
他人をコントロールして離れていかないようにしてきた
という自己観察をしてこなかった方です
カウンセリングでクライエント様と一緒に
その『さみしさ』をみると
ある面白い特徴に出会います
それは『さみしさ』は鱗を持っているということです
『鱗を持った龍みたいなものが暴れ回ってる』とか
『鱗がギラギラして見える』とおっしゃいます
そしてそれを感じる時は
胸がギューっとして締め付けられる感覚になるそうです
何故そうなったかは
ご想像にお任せしますが
その鱗を持った存在は、ドタンバタンと暴れ回り
苦しそうにしているのだそうです
カウンセリングで、その鱗を持つ存在を出会ったならば
方向性としては
その鱗を持った存在を癒す方向に向かいます
と言っても
私が代わりに癒したところで 依存対象が変わるだけなので
それでは本末転倒と
ご自身での癒し方をお伝えすることにしておりますし 代わりに私がやることはできません
欲動は
自分自身からの内的に発生したエネルギーです
それに悪も何もありません
また『さみしい』というものから発生した欲動がないと
人間は他者を求めないし、子孫も残しづらくなります
なので強力な引力を持つものとして発動されます
システム的に誰しもが持ちうるものです
ただの現象に過ぎないのですが
しかし苦しいのはお辛いので
その欲動を、自分でどう抱きしめるかということを
整理するお手伝いをします
しかし多様性の中で
故河合隼雄先生は、この欲動の中でも
『人を傷つけてみたい』という欲動を持ってしまった方は非常に困っているだろう
とおっしゃいました
それを満足させると一時的な満足は得られるが
また欲動する
そんなことをしたら
周りから余計に孤立するし
しかしご本人は他者を必要とせざるを得ない
だから、『うまい距離感を保ちつつ孤独にならないようにしなければならない』と
ずっとおっしゃっていました
欲動の元祖は
もしかしたら『孤独』『さみしさ』が多いのかもなと私も感じます
孤独、さみしさを感じることは悪いことではなく
多くの人間はそれを感じて日々生きているのだと思います
そしてそれを癒しあうツールも現代ではたくさん進化してきました
(癒しあうように見えて 実は寂しさを深めるものかもしれませんが・・)
それでも尚
さみしさを根源とするコントロール欲求から生じる問題をみると
おそらく最後は
さみしさと友達になるしかないのでは・・と本気で考えたりします
またここまでさみしさ病のようなものが蔓延したのは
自然と触れ合うことが少なくなったからだとも感じます
自然はかなりおしゃべりだと感じます
山なんかに登ると
もうほんと至る所からさざめいてきます
クライエント様に、何かと言っては
ある場所への登山を進めるのですが
それには理由があります
常に、私たちは自然の至るところからメッセージのようなものを浴びせられているのに
なかなかそれに気づけないような場所に生きてしまっているのです
なので山に登ってね
とお願いして
登ってもらうと
みなさま、もれなく『なんだか軽くなった』『スッキリした』と仰るのですが
それは自然が『1人じゃないよ』というニュアンスのメッセージのようなものを
常に発してるところに触れてくるからなのだと感じます
自然の中に身を置くと、
至る所から豊かなメッセージが溢れていることに気づきます。
山に登ることで、孤独感が薄れ、安心感や充足感を得られるのは、その繋がりを実感できるからではないでしょうか。
孤独と向き合うには、まず自分が望むものと自然が与えるものの繋がりに気づくことが大切なのだと感じます
自分が望んでいるものが
実は『そこかしこで繋がっているよ』という場所に行くと
それはやはり心が落ち着くと言いますか
1人じゃないという充足感や安心感を感じられるようです
Instagramはじめました カウンセリングルームの様子を よかったらご覧ください