白く折り畳まれる時間

夏の蝉が もう朝からミンミンと鳴く声を浴びて
暑い空気を感じていると
小さな頃のあの風景を思い出します

私の祖母の家の、祖母の部屋には黒く額装されている遺影が
壁のヘリに沿って、いくつも飾ってあり

それはもちろん白黒の写真で
そこにある顔はいずれも笑っているものもあれば
しかめ面をしているものもありました

軍服を着ているものもあり
タキシードらしき正装しているものもある

それらの顔を、いくつもいくつも眺めていると
ふいに、何か遠くにあったそれが目の前に迫ってくるような

生々しい息遣いを感じるというか

すぐさっきまで この人たちは生きていたのだ 

でも もう死んであの世に行ってしまったのだ

という隔たりが
ぐっと、近くに迫ってくるような

自分も不可避なそれが、あの祖母の部屋には
生々しく在るという感覚。

外では何匹もの蝉が、息つく暇もないくらいに鳴いていて

私は暑い中 汗ばみながら
それらの人の顔を一つ一つ何回も眺めていると

普段は感じない、おかしな感覚になっていく

写真から見下ろしてくるその顔たちは
まるで自分を見ていなくて

おそらく生きて会っていたとしても
どこか違うところを見ているであろうという顔たち

まるで考え方も、何もかも違うであろうなと感じながら

その違う考え方でこの人たちは『生ききったのだ』と思うと
それはそれで、すごく遠くも感じるし

この人たちは何を考えながら
何を思いながら一生を終えたのだろうかと
暑い中 ぼんやりアイスなんぞを齧りながら馳せるのだ

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一つだけ、少し異彩を放ったような遺影があり
そこには若い男の人がおりました 

その顔は全く笑っていなくて
しかも斜め上を見ている格好で軍服を着ていて

祖母に尋ねると

『ああ、それは私の一番上のお兄ちゃんだよ』という

『戦争の時に船で亡くなったんだよ』という

つるんとした白い顔の、その男の人は
苦しんだのだろうか

船で死ぬとはどういうことだったのかと尋ねると

『爆撃されたんだよ 船は沈んだんだ』
という

船の上で爆撃で亡くなったのか
それとも溺れて亡くなったのか

想像のしようもないが、それはひどく恐ろしい想像で
こんな怖い思いをして死ぬなんて
と身が震える

一方の、ひどくしかめ面の髭を生やした正装のお爺さんは誰かと
尋ねると

『これはひいおじいちゃんだよ』という

『立派な人だったんだから』と言われて

何をもって立派だったのか
今となれば尋ねてみたら良かったと思うのだが

確かに威風堂々としている
立派な様子を自覚されている感じがある

おそらく会ってたら
怒られたのかもしれないなあとも思う

もう一枚の写真は、ふいに撮られたような写真で
どこかの庭で紫陽花に囲まれて振り向きざまに笑っている女性の写真

『これはひいおばあちゃん』

8人もの子供を産んだという強者は
痛い思いを何度繰り返したのだろうか

小さな頃は、随分と子供を産んだものだと感心したが

今は、妊娠期間と出産とを繰り返す人生は
身体がもつものなのかと心配になってしまう

おおよそ妊娠期間を1年と考えると
この人は8年もの間、身体の中に子供を宿し続けたのだと考えると
生半可では無理であろうに

でもこの色褪せた白黒の写真は庭で笑っていて

どんな人生だったのだろうかと思ってしまう

横で一緒に写真を見上げている祖母をも見ると
それなりに皺もあるおばあちゃんになっていて

この人も、昔は『子供』だったのだと思うと

『子供』から皺のあるおばあちゃんになっていく時間というものが
祖母自体の中にもあり、また祖母を包んでもいて

少しヒヤリとした感覚になる
頭の中が反転した感覚になる 

その祖母の時間が、時が来たらいずれ折りたたまれて
何かの『層』の一つになっている情景が浮かび

自分もいずれ『そこ』は不可避なのだと思い知らされる感じがあった

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私は幼少期から、みてはいけないものを見てしまった子供だったという
自覚があります

この夏も、色々な形のたくさんの記憶に触れましたが

やはりどの記憶も
重い楔のような形をしていました 

どの人の中にも
ドロドロとしているものがある

それを抱えながら『どう生きるか 何を選択するか』
にその人の『人間性』があるのだと思っています

ドロドロとしたものは、消えないのだと思います

ドロドロは人それぞれにより違いますが
差別
傲慢
怠惰
強欲
色情
憤怒
嫉妬
攻撃性
支配欲

などあります 

どれも無いという方はいらっしゃらないと思う

これらの特徴は、生まれつき兼ね備えてきてしまったのも多くあります 

でもそれでも
自分の中の『抱えづらい部分』を持っていてもなお

『どう生きたいか』という選択は
魂一人一人、個々に委ねられているような気がします

その『委ねられた形跡』が
どの人の中にも折り畳まれていて

それはカウンセリングの時に
その方と重なって見えたりもします

何年も前の
夏の記憶たちを思い出すと
ものすごく白い感覚になります 

祖母が、ボールつきの際の『手まり唄』をよく教えてくれたのだが 
それは
戦争中によく歌われていた歌で

『日露戦争始まった〜』『死んでも戦う日本の兵〜♩』

という歌詞で

そんなに遠くもない過去に
そのような歌が子供たちに流行って

それを皺くちゃの祖母が 孫にそれを歌っている

私たち世代は
戦争の起きた時代から少し時間が空いて

物質的には豊かな時代で

目の前の祖母が
子供に戻ったような感じで
ボールをつきながらあの歌を歌っていると

この人は
あの時代を生きていたのだと確信する感覚が

どこか空恐ろしく感じる

もう何十年も会っていない祖母で

おそらくこれからももう会わないと思うのだけれども 

祖母の時間がゆっくり折り畳まれていくのを
なんとなく感じるのが

毎年の夏なのです

次回から普通のブログに戻る予定です