『俺の腹に石を詰めるなんて!』 

西洋の物語は、
最初から、やさしい顔をしていなかったように思えるのです 

むしろ夜の話だったような気がします 

火のそばで語られる話で

外には、森があって、狼がいて、飢えがあって、病があって、
そして、戻ってこない人がいました 

物語は、
眠らせるためのものでもあり、
目を覚まさせるためのものでもあったような、そんな気がするのです 

グリムの森は、
道徳の舞台ではなく、
境界のない暗く何か潜んでいる場所でした 

物語も、色合いがとても神秘的な使い方がされているなあと思うのです

鬱蒼としている暗くて深い緑の森に、赤いずきんを被った女の子・・とか

色とりどりのお菓子の家

魔女のシワシワの手に
ふっくらした子供の手

緑と赤
青と白
黒と赤 

家と外
人と獣
生と死
子どもと大人 そして老人 

そのどれもが、はっきり分かれていなくて 

迷うと、戻れなくて

信じると、食われてしまって
助けてもらうと、代償を払わないとならない 

あの物語たちは
「こう生きなさい」とは、あまり言わないのですが 

その代わりに
『危ない』とだけ置いていくのです 

アンデルセンは、
森よりも、部屋の中にいた人ではないかと思うのです 

彼の物語には、
暖炉があって、窓があって、街灯があって、
でも、どこか、いつも薄ら寒い感じがします 

人形
マッチ
錫の兵隊

人魚

ものたちは、よく喋り
でも人は、あまり救われない

アンデルセンの世界は、
自然の残酷さというより、
社会のやさしさの残酷さでできているような気がします 

哀れまれる
同情される
愛される
でも、そこに、居場所はなくてーーーという物語です 

私は、ここに
キリスト教的な世界観の影を感じます 

罪と救済
堕落と純潔
犠牲と報い

放っておかれる者と、見捨てられる者 

グリムが、
生き延びるか、死ぬか、の物語だとしたら

アンデルセンは、
意味を持つか、消えるか、の物語に近いように感じるのです 

どちらも、
子どものために書かれた、とは言いにくいようなものばかりです 

むしろ、
大人が、自分の恐怖や諦めを
小さく折りたたんで
子どもに渡したような感じがします

「世界はこういう場所だよ」
と、言葉で言う代わりに
物語の形で置いていくのです

西洋の物語の中で、
“善”は、だいたい、弱いものとして描かれます 

正しいだけでは、足りなくて
優しいだけでは、生き残れないという世界観です 

だから
知恵を使う
嘘をつく
騙す
逃げる

そのこと自体は、
あまり、責められていないのがポイントです 

生き延びることの方が先にあるのです 

グリムの世界には、
自然という“外側の圧”がある

アンデルセンの世界には、
社会という“内側の圧”がある

森に入ると、試される
街に入ると、選別される

どちらも、
人を、ふるいにかける

ちなみに森というものは
人間の概念としては『無意識』に相当するようで

箱庭なんかでも、『森』をつくる人は
無意識の領域が多いとされています 

対して、そうすると『街』は『社会』に相当するのでしょうか

そして、物語にも やはりフロイトとユングの影が見られるようです

グリムの森は、
無意識のようです 
衝動、恐怖、欲望、変身。

アンデルセンの部屋は、
超自我のように感じます 
視線、評価、恥、理想。

外で喰われるか、
内側で削られるか

どちらも
同じ世界の、違う面です 

だから、西洋の物語は、あまり、安心させないものが多いのです

きれいに終わらないくて、ざわざわする

報われないまま、終わることも多くて
ちょっとした余韻は、むしろ暗い感覚になります 

でも
そこにあるのは、絶望というより、
現実感だと、どこかで理解できてしまうからかもしれません 

世界は必ずしも、こちらの純粋さに、応えてはくれないというもの。

それでも、どうやって立っているか

物語は、その姿だけを、残しているような気がするのです 

私はあの物語たちを
あの話たちを教訓だとは、あまり思っていません 

むしろ
時代が
子どもにまで手渡していた“空気”の標本のように感じています 

冷たさや怖さ
期待と諦め

絶望と欲の行く末などを

ガラス瓶に入れて棚に並べたようなものが
『物語』だったのかもしれず 

だから、何度も何度も、年を取ってその度に、読むたびに
時代の匂いが少しします 

焚き火の木がパチパチと音を立てて爆ぜて 
濡れた土があって
蝋燭のすす
石畳の冷たさ

濡れた髪

物語の中に、
“昔の空気”と

誰かの、深い憂いの眼差しと
ため息が感じられるからかもしれません 

私もクライエント様から伺うお話を

『聴く』として
物語に耳を傾けているような感覚でおります

するとゾーンのような場所から

絵巻物のようなものが立ち上ってくるのですが

その一人、一人のクライエント様の物語から
『キーマン』の声が聞こえてくるようになりました

キーマンは、物語を進める上で欠かせない存在です

それは、トランプのジョーカー的な存在でもあります

それが、なくっちゃあ物語が成り立たない・・みたいな存在でしょうか

そしてジョーカーは
あらゆることを『ひっくり返す』ような力を持つものです

しかし、ジョーカーは『ひっくり返す』ことしかできない

ジョーカーそのものだけでは、何も進まない

だからジョーカーは
人の物語に入り込むことで、
『ひっくり返す』ことで、物語のある部分を担うとともに
自分の存在をあらわすのかもしれません

私たちも生きることで必ず
何かしらのページに、『綴られて』いるものです

そして、自分の物語は、自分で書き進めて行くものですが

ある出来事を書いたとして
二人いたら、二人とも全く同じ物語を書くことはありません

赤ずきんと、狼は同じ物語を書けないのと一緒です

赤ずきんからしたら、狼は『私を食べようとした悪い狼!』になりますが

狼からしても、赤ずきんは『結局、誰かに助けられて、俺の腹に石を詰めたな!』
なんていう恨みの物語になったりします

どちらが上位というわけではなく
どちらの物語か・・というのはとても大切な『物語の選び方』になります 

そして
私は、どちらかといえば『読む』ことしかできないのです

どのかたの物語も、読むことはできるのですが

どれに肩入れなどができないのです

どの方にも仁義と義理と、道理があるようなあ・・と
いう宙ぶらりんでいることが大事なのかなと思っています