
『いじめのトラウマ』を持つ人は多いのです
毒親に次いでの多さでもあります
また、毒親に育てられた人は
統計的に見ても
割といじめをうけてきている人が多く
セットでトラウマになっている人がいらっしゃいます
私もいじめを中学の時に受けていてそれを何十年も言えずにきました
いじめられたということが
自分の中で『恥ずかしいこと』の位置付けになってしまっていて
自分でも不思議なのですが
言葉にできないのです
しかし3年前に、いじめてきた1人に連絡をして
『どうしていじめたのか』を尋ねてみました
彼女は『自分がターゲットとなるのが怖くていじめた』と
言っていましたが
それもあるのでしょうが
私には違う印象を当時受けていました
それは、いじめてきた人たちの顔が
恍惚としていたことです
快感を感じているというか
昂っている感じが
どうにも気持ち悪くて仕方がなくて
確認したくて
連絡を改めて取ることにしたのです
彼女は、言いました
『あの時、私は加虐的な快感を感じていたと思う』
それは、長年私が疑問に思って
また
何回も何回も思い出してしまうあの表情の答えが出た瞬間でもありました
それから数年経って
残りの、連絡を取れる全ての人に連絡をしてみました
皆、最初は連絡をもらったことを喜んでいる対応でしたが
本題を切り出すと
『私だって、辛かったんだ』とか
『思い出せない いじめてたことは記憶にあるけど
楽しかったかどうか覚えてない』
と言いました
結果、あの表情の答えになる返事をしてくれたのは
数人でしたが
記憶を無くしていると言っている人もあって
それはそれで仕方がないのかもしれないと思って
話を切りあげたのだけれども
それから数年カウンセリングの臨床場面で
『いじめられてきた人が、一体何を苦しんで
言葉にできないようになっているのか』
ということをずっと考えてきました
でもその答えが見つかりかけたのです
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いじめというのは
割と多く発生するのは思春期前後であります
思春期というのは『性』の展開をする時期でもあって
身も心も不安定になりがちだと言われています
その時期というのは
周りとの比較をされるのと同時に
自分でも他者と比較をする時期ですが
何より大事な通過点として『親との決別』の時期に差し掛かります
親との決別は
子供にとって非常にストレスがかかります
今まは親子一体として
周りから見られていたものが
『自分1人』での評価と認識をされるようになってくる時期は
非常に心許ない不安定で恐怖感が増す状態とも言えます
その時期に
拠り所としての親と、外界を行ったり来たりしながら
徐々に親離れをしていくものなのですが
その不安定な状態を一番、手取りやすく
安定させるものとして
『快』を探し出すようになります
『快』は自分を強く、大きく感じさせてくれるものですから
不安定な人ほど
強く『快』を求めるようになります
一番手っ取り早い『快』は
『支配欲求の快』です
フロイトは『全ての無意識からの欲求は性欲からきている』と言っていましたが
弟子のアドラーは
『それに原則として支配欲求というものが人間にはあるのだ』
と言っていました
私は
この『支配欲求』というものが根源的に人間にあるのかということを
ずっとカウンセリングでクライエント様をみてきましたが
『支配欲求』というのは
一種の伝染病か、もしくは遺伝か、血筋なのか
先天的とも言えるが
後天的とも言える場合もあり
非常に不可解な欲求だなと考えているのですが
この支配欲求に取り憑かれてしまう場合の原因は
『快』を追求しているからなのかと思ってみていました
また支配欲求に取り憑かれてしまう人の原因として
『欠損感』を自分に感じていることが多く
欠損感は非常に不安定になりやすいので
依存などで補おうとすることが一般的ですが
それがいじめと同じ構図なのではないかなと感じるのです
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そもそもアルコール中毒や
買い物依存症などは
何かを補って、それで一時の充足を得ます
しかし、それは一時的なもので
すぐに欠損感を感じて不安定になってしまうので
すぐに依存対象のものを摂取しなければならない
いじめの構図もそれと同じで
いじめている時間は限られてしまうので
すぐに依存物質は切れるわけなので
非常にいじめる対象に執着してしまうのです
また、ポイントとして
『見捨てられ不安』がある人は
集団の中にいないと不安になってしまうので
集団を結束させるためのスケープゴートが選び出されると
率先していじめをすることで
集団の内部に対しての『威嚇』をすることもあると思われます
『自分をいじめたら、こうなるぞ』という
所属している集団に対しての『強がり』が
スケープゴートに対して
規格外の行動を及ぼしてしまうこともあります
スケープゴート(いじめる対象)に対しての快感を得つつ
集団への戒めのような行動をするという二重の歪んだ構造が
いじめをエスカレートさせていってしまうのではと
思うのです
1人が、所属している集団への威嚇を始めると
集団に所属している人たちは
こぞって、『威嚇行為』を競い合うようになります
『自分はもっと酷いことをできるんだ』というような
パフォーマンスで
集団をお互いに恐怖で貶めていくのです
所属している集団への『誓い』のような行動を、
自分自身で表現させられてしまっている、いじめられている人は
大変な苦痛を味わうようになります
いじめる対象の選び方は
いじめる人自身の、真の欠損感を埋められる人が選ばれやすいのではないかと
思っています
いじめられる人が持っている才能などを
いじめて潰すことで
いじめる人は、自分の欠損感をみないで済むからです
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私個人としては
いじめる人に対して
ある意味、アルコール中毒などと変わらない依存症に近い感覚を覚えます
いじめ依存
もしくは
対象加虐依存です
しかし
いじめの場合は
いじめられている側に、救済の手が差し伸べられることも多いのです
いじめる対象がいなくなってしまった人の顔は
とても不安げで、苛立ちを隠せない様子があります
すると、どこかで
新しいスケープゴートを探しに出かけなくてはならなくなるようです
私があの時、いじめる人たちの恍惚とした表情を思い出すと
恥の感覚に苛まれるのも
今となればわかります
勝手に、対象とされて、快感を感じられているのは
非常に屈辱的であり 侵害的な行為だと
無意識下で感じていたからなのだと思います
性的虐待者から一方的に追い求められて
執着されているのと、何ら変わらないのです
実際に
クライエント様の
『いじめのトラウマ』をみていくと
加虐者たちの欲望の不快な映像が浮かびます
その映像は、快感追求の雰囲気と近しく
また執着性を帯びておりストーカーに近しいものを感じるのです
いじめをする人と
しない人の差違は
『加虐的な快感に耐性があるか ないか』だと思っています
加虐的な快感に
さほどブラされない(酔いがまわりにくい)ということや
むしろ全く受け付けないという人は
いじめという手間がかかる行動に興味を示さないようです
いじめたいという依存行動の場合の治療は
傾聴なんかでは全く意味をなさないと思っております
依存症に近しいので
否認をされて(無かったことにされる)しまうのがオチです
アルコール中毒は『否認の病』とも言われています
自分自身がアルコール中毒と認めないのです
自分に不都合なことは認めたくない
心の安定が保てなくなるから認めたくない という特徴があります
いじめをした本人は
絶対に認めないし
むしろ、『いじめた』と認めたら心の均衡が取れなくなってしまうので
異常なほど、口が固くなるのです
ですので
私個人としては『いじめをしてしまう依存』の方は
依存症専門の医療に繋げるのが一番いいと思っています
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