信じるとは

 

『信じてますからね』と言われることもあります

それを聞くと
なんだか苦しい感覚になることがあります

 

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さて、私は上のような『信じる』という言葉を
日常生活で誰かに対して使ったことがありません

たとえばよく言われる
『私を信じてよ』
という言葉

でも、私は何を信じていいのか分からないのです

 

そもそも、人というのは環境や思想や、また健康状態、年齢によっても
変化していく生き物であって

変化していく限り
経験も、思考も変わっていくのであって

そんな変わりゆく存在に対して
何を信じていいのか分からない

 

だから『信じてよ』と言われると

私は
『存在していることは信じているけども
言っていることを信じていいのか、果たして私には分からない』

大真面目に答えてしまうので

相手から鳩が豆鉄砲を食ったような顔をされてしまうのです

 

また
『自分自身を信じて!』というような
キャッチーで且つ『良いこと言ってそうな言葉』も
いまいち信用なならない

そもそも『自分を信じて』いたら
私は何もしない人間になってしまうのではないか

考える性質なのです

 

私は、怠惰だし、忘れっぽいし
・・だから信じる要素がない

だからこそ

『信じられる自分というものになるために行動し続けている』
のであって

最終的に『信じられた』となるときは
おそらく死ぬ間際くらいなんじゃあないかと思っている

 

それくらい
私は自分の中の『気を抜くと、すぐ易きに流れる』性質を知っているので

だからこそ
『ある程度の努力が必要』という

苦い経験からの
自分への教訓だけは持っている

という捻くれた信念は持っているのです

 

 

そもそも信じるとは何なのか

①正しいと考える
②うそ偽りなく確かに正しい真のことだと強く思い込んで受け入れる
③当てにするにあたる頼もしい相手だと思い心を寄せる
④信仰する 信心する

(wiktionaryより)

○ 1 少しの疑いも持たずにそのことが本当であると思う。
「神は存在すると―」「従来の学説を―じて疑わない」
○ 2 自分の考えや判断が確実であると思う。確信する。
「僕は彼がきっと来ると固く―じている」「彼女の成功を―」
○ 3 相手のことばや人柄に偽りがないものと思う。信用する。信
頼する。「もう誰も―じられない」
○ 4 信仰する。信心する。~に帰依する。
「仏教を篤く―」

(明鏡国語辞典より)

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それにしても、何やらこうやって調べてみると
『信じる』とは非常に心の内面の中を開け渡す行為と言いますか

現代において、いやこれ
難しいんではないか?

と思うわけです

 

特に項目として①②③あたりは
むしろ洗脳や催眠にかかっている状態を思い浮かべてしまうのは
職業病からでしょうか

 

また『信じる』とは動作的な風合いを持っているようにも感じて
なんだか少し不可思議な感覚を覚えるわけです

そもそも『信じる』ということが
動作として成り立つのかという疑問もあります

冒頭に書いた
『あなたを信じますからね』という言葉。

『信じる』ということを能動的に
すなわち自己発生的に、他者に対してできるものなのか?

私の中で、『信じる』という体感になる時は
何も介在しない、ただそこに佇んでいる時の状態で
それが現れるようです

言語化してみると
それは『信じるという状態が訪れる』というニュアンスに近いものです

その訪れた状態というものは
決して強制をされたわけでもなく

ただ『在る』みたいな状況
・・・私はそれがほとんど森の中や、空や、いわゆる自然の中で立ち現れますが

その『在る』の中に
『自分も在る』という状態が
非常に『信じている』=『全権を預けている』=『抱(いだ)かれている』

という安心感にも似た感覚を覚え

またそこに無常の大きな循環を感じて
自分もそこの一部なのだという感覚で

それだけでもう充されてお腹いっぱいなわけです

 

『大きな循環の上で
一つ、ポツンと突起したような存在が人間』だと感じるので

その『突起』のみを信じるということは

果たして、ものすごく心許ない気分になってしまうと言いますか

そこに私の心を開け渡すのは
なかなか出来ないもんだよなあと感じるわけです

 

また催眠(洗脳)の際に
よく使われる言葉としても『信じる』は上位にランクインします

『信じる』という言葉を否定するわけではないですが

その言葉を取り扱う人をよく見た方がいい

『信じてください』なんてのは
悪魔が好む言葉でもあるかもなあと感じるのです

 

『愛している』という言葉がありますが

日本や西洋だと
この『愛している』は自己発生的で能動的、
そしてこの
『愛している』は自分でコントロールできるような行動を
伴う言葉として使われているような感じがします

しかしヒンズー語ですと
この『愛している』は
少し違ったニュアンスで

『あなたへの愛がどこからか来て、私のもとにとどまっている』
という意味合いで使われるのだそうです

 

誰かからもらうものでもなく

自分から発生するわけでもなく

働きかけるものでもなく

どこかからやってきて
自分にとどまって 立ち現れるようなもの

 

・・・・私はこの感覚に非常に共感を覚えるのです

 

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子供が産まれても
『愛おしい』と思えないという母親は多いと聞きます

カウンセリングでも
よくそのご相談はありますし

そして、また自分自身が母親から愛おしがられないで育った方もいらっしゃいます

 

この『子供が愛おしい』という感覚は
ママ友界隈でもよく昔話題となりましたが

結構、ママ界隈では『子供って憎たらしい』という人、多いのよ

でも、これって
自然なことだなと思うときがよくありました

『愛おしい』という感情は
身体がリラックスしていないと、訪れない

『愛おしい』という感覚は
自分が満たされていないと、なかなか現れない

それこそ緊張状態だったり
不安なことがあると、無理っていうもので

それを無理やり『愛おしい』という感覚を
『母性本能、でるでしょ!?』という無理強いで強いるのは
余計にしんどいと思うのです

感覚というのは訪れるもので
また『快』の感覚というのは
身体がゆるまって初めて立ち現れてくるような気がします

ある程度安心した、安全な場所で訪れてくるものであって

そこが何度も何度も
立ち現れては、消え
そしてまた立ち現れて・・という感覚を何度も反復して

そして身体がそれを覚えていくという順番になるのだと考えるのです

 

なので『信じる』というものも
誰かにしてもらうものでもなく
誰かから働きかけるものでもなく

立ち昇ってるもの

自然と出てくるもの

そして素朴な『個人的なもの』なので

それを笠に着て
誰かを縛ることもできないもの

 

本当に『信じる』という境地になったら
それは相手にわざわざ伝えることでもないような気がするし

何より『空気感』で伝わるものではないかと推察します

あなたの存在と
それを成り立たせているものに敬意を持ちます

・・的な感覚は

それを向けられた相手にとっては
とても守られているような気持ちになるような気がするのではと思っています

   

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