猫の事務所

人の心というものは実に不可思議な働きをするなあと思っているのですが

 

私は先日、東北のとても深い湖がある場所に行ってきました

そこは透明な緑青色の湖で
水深20メートルくらいまでは目視ができるのです

山の上にぽっかりとある湖は
世界の中でも三本指に入る深さがあるところですが
湖面はいつでも静かな凪なのです

必ずそこで、カウンセリングで請け負って溜まってしまったものを
しかと清算してくるのですが

全く湖というものは
個人の心のありようを眺めているようです

 

さて
私はいつも地方を訪ねるときは
そこに縁のある作家の本を携えていくのですが

今回ももれなく宮沢賢治でした

宮沢賢治の作品は、森羅万象の中で在る哀しみと慈しみのようなものを
感じるのですが

やはり私がすごく惹かれて読み耽ってしまうのは
どこか遣る瀬無い物語なのです

 

『猫の事務所』というお話をご存知でしょうか


(宮沢賢治童話集より引用)

猫が5匹、猫界でも憧れの的の『事務所』で働いているのですが

その中の1匹の『かま猫』がこの物語の主人公です(以下ネタバレ注意)

 

 

かま猫は、事務所で働く同僚の三匹から
見た目、血統、生い立ち、住むところで差別を受けて不当な扱いをされています

かま猫は、周りから『かまどの中で眠る猫』だと馬鹿にされているのです

普通の猫はかまどの中で眠りません

しかしかま猫は、土用の日に生まれたので
皮ふが薄いためにかまどの中で眠らないと風邪を引いてしまうのです

かまどの中は煤(すす)ですすけており
そのためにいつも顔が真っ黒でたぬきのようだと嫌われているのです

何度もかま猫は当たり前の猫になろうと
外で眠ろうとするのですがくしゃみが出てたまらないので
やっぱり仕方なくかまどの中に戻るのです

やっぱりぼくが悪いんだ 仕方ないなあとかま猫は考えて
なみだをまん丸な目いっぱいにためているのです

 

事務所の事務長だけが
かま猫の味方でいてくれて
他の三匹からの意地悪をとりなしてくれます

だからかま猫は、
事務長は親切にしてくださるし
かま猫仲間はぼくが事務所にいることを名誉なことだと喜んでくれているのだから
やめないぞ、きっとこらえるぞと泣きながら
握り拳をにぎって眠るのです

しかし 一向に意地悪は止みません

でもかま猫は仕事が好きなもので
一生懸命に真面目に働きます

その働きぶりも、他の三匹からしたら妬みとやっかみの対象となってしまうのですが

仕事に誇りを持っているかま猫は
頑張って、三匹の猫がドジをしたときの助けなどもします

しかし助けさえも
『バカにしてるのか!』と突っかかられているのです

 

そんなある日、かま猫は足の付け根がお椀のように腫れ上がって
どうしても歩けなくなってしまいました

かま猫のもがきようと言ったらありません

泣いて泣いて泣きました

かまどの中で
納屋の小さな窓から差し込んでくる黄色の光を眺めながら
一日いっぱい目をこすって泣いていました

 

その間事務所はというと
かま猫が休んだことをいいことに

他の三匹が事務長に、かま猫の悪口を吹き込みます

『あいつは事務長の椅子を狙ってるんですよ お調べになってご覧なさい』などと嘘を伝えて

とうとう事務長もそれ信じてしまうのです

 

次の日にかま猫はやっと足の腫れが引いたので
よろこんで朝早くごうごうと風が吹く中を事務所まできました

すると自分の机も
いつも大事にしている仕事の原簿も(かま猫の仕事は調べ物の仕事です)
自分の座っていた机も無くなっているのです

いつも来るとすぐ表紙をなでて見るほど大切な自分の原簿が
他の三匹の机に分けて置いてあるのです

『ああ、昨日は忙しかったんだな』
とかま猫はかすれた声で独り言を言います

扉が開いて、他の猫たちが次々に入ってきました

かま猫は『おはようございます』とそれぞれに丁寧にお辞儀をして挨拶をしましたが
他の猫たちは見向きもしません

どんどんかま猫のお辞儀も力がなくなり立っているのがやっとです

 

とうとう事務長も出社してきました

他の三匹は素早くたってお辞儀をしました

かま猫もたったままぼんやりと下を向いたままお辞儀をしました

『ずいぶんひどい風だねえ』と言いながら
事務長もかま猫に見向きもしません

とうとう自分を見ないまま
皆んなは仕事を始めました

かま猫は、なんとか言いたくっても声も出ません

自分の仕事だったはずの調べ物の発表を、他の猫が言い出すと

『これは僕の仕事だ、原簿、原簿・・』と
かま猫は泣くように思います

かま猫はもう悲しくて 悲しくて
頬のあたりがすっぱくなり
そこらがキインと鳴ったりするのをじっとこらえてうつむいておりました

 

とうとうお昼になりましたが
かま猫は持ってきた弁当も食べずにじっとひざに手を置いてうつむいておりました

とうとう昼過ぎの1時くらいからかま猫はしくしく泣きはじめました

そして晩方まで泣いたりやめたり
また泣き出したりしたのです

それでも皆んなはそんなこといっこうに知らないというように
ちらっとかま猫を見ながらも
面白く仕事をしていました

 

 

このお話の顛末といえば
少し呆気に取られるような、スカッとしたような?ものなのですが

さて
もう私と言ったら
この話を読むと
涙がぼたぼたと出てくるのです

宮沢賢治のすごいところは
平仮名の使い方がとても催眠的なところです

実際の童話を読んでも
漢字なところと、平仮名のところが
本当に絶妙な塩梅で

読んでいるうちに、どこか誰か
知らない人に朗読されているような気分になってくるのです

 

そして、なぜ私がこの物語を何度も何度も読んでしまうのかというと

やはり自分の中の『癒しがたい部分』が
反応するからなのだと思うのです

私は、
かま猫のような人たちと沢山カウンセリングでも会います

小さな頃に、かま猫のようだった人も沢山おりました

どの人も
一生懸命に働いて
頑張っているのに

なぜか忌み嫌われたり
除け者にされたりして

理由もわからずに涙を流すという場面を多く見てきて

そしてその人たちのことを思い出すことも
私自身、とてもしんどいのですが

この物語を読むと、いてもたってもいられなかったあの頃と
今、現在を思い出すのです

 

哀しみというものは
本当に持ち続けることはしんどいものです

だからこそ、どこかで癒しを求めていたり

もしくは、そこに免疫をつけようとしたり
慣れさせようとしたりして

私も日々のカウンセリングで、精進をしているのですが

 

ふとした瞬間に
誰かの哀しみに触れてしまって、
心の奥の誰にも見せたことのない部分が出てきそうになり
慌ててそこから目を逸らしたりしてしまいます

この心の深淵というものを場所的に
なんとなく感じるのがいつものこの湖なのです

 

人の心を見るときは
もちろん構造上のものを組み立てて
舞台装置のように置き換えてカウンセリングをしていくのですが

原体験としての『心』が見えた場所は
私は『湖』です

しかもある程度、透き通っていないとダメなので
この東北の地にいつも来るのです

森羅万象の中に、人間も、動物もいて
そこの中にいる以上
誰かを傷つけたり
食べたりしないと生きていけないのが『生き物』です

でも、そこの哀しみをとことん書き綴っていったのが宮沢賢治です

しかし、誰かの何気ない『ただの行動』が
誰かの『さいわい』になることもあるという救いを
書いたのも宮沢賢治です

 

『虔十公園林』というお話もいいものです

『虔十』という周りから馬鹿にされている男の子が植えた
樹たちが、後々に人々を安らげる憩いの場になるというお話

宮沢賢治は、韻を踏むのが好きだったので
おそらく『虔十(ケンジュウ)』は賢治自身の名前からとったのだと思われます

 

その時は、誰からも褒められもしないものが

いずれかは誰かの『さいわい』になる

ということが
自分の『さいわい』なのだと賢治は思ったのかもしれません

 

私は
カウンセリングをしているとき、
介入をしている時など

私も自分が空っぽになったような、おかしな感覚と言いますか

賢治のそれに近しいような感無量な感覚にいつもなるものです

自分が『無い』と感じられるときに

どこかものすごく安心するというのも不思議なものですが

 

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深く澄んだ湖は 変わらずずっと何かを沈ませたまま

静かに在って

それはそれで良いようなのです

(引用 宮沢賢治童話集 世界文化社)

 

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