関心領域

ずっと
なんとなく表現できないと言いますか

上手く言い表せないことを
どう言えばいいのかわからないし

『言葉もない』ので

その(本当は表現したり話してみたい)黒い塊のようなものを
説明しようにも
周りくどくなってしまったり
なんとなく言葉が上滑りするな・・と思っていたらば

今現在、一緒に仕事を伴走してくれている先生から

『是非、この映画を見たらいいと思う』と
お勧めされました

その映画は『関心領域』と言う映画です

 

今、色々なところで上映されているものですが

簡単なあらすじをここで述べますと

ホロコーストの現場となったアウシュビッツあたりでのお話

第二次世界大戦中のホロコースト(1933 年~1945 年)とは、ナチスドイツ政権とその同盟国および協力者による、ヨーロッパのユダヤ人約 600 万人に対する国ぐるみの組織的な迫害および虐殺行為のことです

 

アウシュビッツあたり・・と
書いたのは

アウシュビッツの塀の
隣にある家🏠でのお話だからです

そこの家は大変に美しく、季節の花々が咲き乱れて

プールがあり
子供たちが歓声を上げながら遊ぶ

休日ともなれば、近くの川に家族みんなでピクニックに出かけ

などと
『これは戦争中のお話なのか・・?』
となるのですが

実話を元にしたお話の映画なのです

 

勿論、ところどころ創作されているところはあれども
本当にアウシュビッツの塀の隣で住んでいた(住めていた)ということに
驚くのだけれども

映画は、本当に塀の外のお話でありますから
残虐で目を覆いたくなるようなシーンはありません

目から入る情報としては

ただの裕福な暮らしをしている家族の日常

しかし

情報というのは、目だけではありません

耳からも勿論、入ってきます

この映画は
実は『耳だけはしんどい』という映画

 

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私たちの五感の中で『耳』が受け持つ『聴覚』というものは
常に24時間フル稼働するものです

『目』は夜寝る時などは瞼を閉じたりするので
ある程度の感覚をシャットアウト出来たりするのですが

『耳』はいつも常に外部の音を拾い続け

『何が起きているのか』を
いつもいつも感じ続ける器官です

その耳が、この映画の舞台となるアウシュビッツの隣で
明らかに
『ある異変』を捉え続けるのです

しかしそこでの生活は
『音』に気がつかないと言いますか

聞こえているのに、『聞こえない』ように生活できる人々

その『無頓着さ』と
壁の中でのことに、とことん関心を配らない感じと

でもずっとひっきりなしに『何かを伝えてくる音』が
生活にある感じと

それが
ある意味、不協和音なのに成り立ってしまっていること。

 

正直、映画をみた直後は
ものすごく何かを感じたという感覚はなかったのだが

時間が経つにつれてジワジワくる感覚を

その感覚を言語化したがっている自分に気がつくときに
不思議な気分を味わいます

この、『関心』が
果たして自分の場合は
『どこまであるのだろうか』ということを
自分で自分に、ゆっくり と 自分の暗部に関心を持ち続けることへの
しんどさなどを今も感じ続けてるのだけれども

 

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トラウマの治療で、勿論
その直接的な加害の部分というものは
一番わかりやすく目を向けやすく、そして怒りも感じやすいものなので

治療をしやすいものなのですが

トラウマがトラウマになってしまった経験を
よく観察してみると

『トラウマになることを見過ごしている周りの人たちへの怒り』
が、隠れていることが多いのです

 

つまりそれはどういうことかというと

『いじめをされていたことがトラウマになってしまった』
ということを紐解いて見ていくのですが

勿論、直接的に加害をしてきた人への怒りや絶望などは
感情としてすぐに自分でも分かりやすいものですが

その『いじめを傍観してきた人々』への怒りなどは
トラウマを治療していく中で
中間くらいに出てくる強い感情として出てくるのです

 

クラスでいじめられてきたという出来事の中で

直接加害をしてきた人たちへの怒り

いじめを傍観して、その現場を黙って見守ることで
結局いじめの現場を維持して促進してきた人たちへの怒り

と2段階があってトラウマとなることが多いということ

 

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母親が虐待が酷かったのにも関わらず
父親がそれを止めなかった(無関心だった)

いじめられているのにも関わらず
担任が、『お前も悪いところがあるんじゃないか』などと言ってきた

クラスメイトは見て見ぬふり

近所に人たちに避けられていた

『まわりから 遠巻きにされていた』

『現場を止めたら自分も標的にされてしまうから』

『生贄にされている人を止めることが怖い』

 

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この辺りの心理は非常に複雑で
そして『グラデーション』になっているものなので
一概に言い表せないのですが

『自分が、それを止められない』ということを自覚して
その罪悪感を感じることができる人と

全くもって『関心がない』という人と

誰かが傷ついていても
『自分のことで頭がいっぱいな人』とがいて

そのどこあたりに自分がいるのかということを
突きつけられる映画なのですが

それをずっと『アウシュビッツの音』が
映画の中で
『自分を追いかけてくる』のです

明らかに『殺戮』を感じる音や

24時間たちのぼる煙や
何かを燃やし続ける音や

匂いや

それらを感じ続ける中で

自分は『どうあるだろうか』と問い続けることの『しんどさ』と

また『それをきちんと捉えられる感受性を自分はもっていられるだろうか』
と否応がなく自分自身を見ざるを得ない映画なのです

 

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生きていると、どうしても何かしらの現場に立ち会うということは
あるものです

その時に『何を感じられるか』ということは
とても大切で

また『自分はこれを、こう感じているのだ』という
自分への客観性は
ずっと持ち続けていたいと思っていますが

でも、その感受性が強ければ強い人ほど
生きづらいなあと、カウンセリングでもよく感じているのです

人の痛みに、気づきやすい人と
人の痛みに鈍感な人

カウンセリングをしていて
そして研修などを通しても

一般的に、ある程度の『鈍感さ』を持っていた方が
生きやすいんだろうな・・と悲しいながら思うのです

 

『自分だけの生きやすさ』を追求していくと
鈍感に生きることは
『何かを助長していること』もあったりする

いや、もしくは
自分が生きるためには『ある程度の鈍感さ』は必要なのか

でもそれでは
いつ何時『自分が痛みを感じることになった時にどうしたらいいのだろうか』

助けを求められるのだろうか

 

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複雑で重いトラウマになる原因の一つとなる大きなテーマは
『助けてもらえなかったトラウマ』です

痛みを感じることは、トラウマとなりますが
それは誤解を恐れずに言ってしまうと
治療がしやすいトラウマです

しかし複雑で時間がかかるトラウマは
『助けてもらえなかったトラウマ』で

『関心を向けてもらえなかったトラウマ』
もしくは『見殺しにされたトラウマ』で

それは『社会的トラウマ』と言っていいと思います

そのトラウマを生み出してしまう加害の方になってしまうということを
我々はいつも突きつけられているよなあ

常々カウンセリングの現場ではそれを
研修などで話あうのです

 

勧めてくれた先生は
『こんな映画ができてきたことは、ある意味救いだと
私は感じたのだけれども・・』

と言っていたのだけれども

もし興味がございましたら観てみたらいいかなと思っております

ネタバレにはなりますが
これは『感じる映画』だと思うので

自分がどう感じたか・・を感じにいくにはモッテコイだと思います

劇場は超満員でした

終わった時に不満を漏らしている方々もいらっしゃいましたが
重い顔をしている方もいらっしゃいました

   

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