世の中には『毒』というものが在る
一例を挙げるならば
『フグの毒』などは恐ろしい毒でありましょう
ふぐという魚は一見福々としていて
食してみたくなるような風貌でありまして
そんな魚のどの部位が毒なのか・・ということは
先人の勇気からいただいた智慧なので
私たちが今現在、『ああ あれは毒だからね』なんて簡単に
知ったことのようにいうことは
昔の人々の決死の思いでのチャレンジからいただいた智慧と体験を拝借しているに過ぎない
ジャガイモの芽が毒だとか
紫陽花の葉っぱが毒だとか
採ったばかりの青々しい梅は毒だとか
それこそカビは人体には毒的な働きをするし
銀杏も食べすぎると呼吸困難、痙攣などを起こす
朝顔や、夕顔、彼岸花などなど
身近な多くの植物も
肝機能障害や、嘔吐など
身体に変調をきたすものは多くあるのです
小さな頃、それこそ私はなんでも食してみないと気が済まない子供だったから
いろいろなんでも植物を食べていたが
ある時、間違えて漂白剤を舐めてしまい死ぬ思いをしたことがある
その時の苦しさと言ったら大変で
でも大人に『漂白剤舐めた』と言ったら怒られるのはわかっていたので
静かに部屋の片隅で高熱を出しながら
ずっと吐いていたのを覚えている
その時に誓ったことは
『なんでも口に入れてはダメなのね・・・』ということだった
その体験から『毒は毒でも程度が危ない毒はある』という
普通ならわかることを身を挺して学んだのだが
身の回りには
割と多くの『毒』が存在するのだと知って
私は不思議な気持ちになったのを覚えている
我々はいつも『命』を守るためには
どれが毒で・・などという
『知識』というものが必要で
しかしもし『知識』がない場合に
自分を守るには『保留にすること』ということもだいじなのだなと理解したのだけれども
『保留』とはすなわち
『すぐ体内に入れないこと』
そして『すぐ飲み込まないこと』
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毒は、植物や食べ物や物体など
具体的に掴めるものばかりではありませんでした
成長するにつれて
『毒となる思想』や『毒となる快楽』みたいなものもありそうだと気づき始めたのは
いつの頃だったのでしょうか
『集団になると急に立ち昇る一体感のような変な高揚感』
『集団になると急に現れるピラミッドのようなパワーバランス』
『いじめることでの一体感もしくは快楽』
『指導的な立場に立つことの快楽』
『無視するという手を下さない攻撃』
『ターゲットを攻撃することへの喜び』
これらの行動から感じる感覚は
自分から自分への『毒』となるのだと気づき恐ろしくなります
心は柔らかくいつも生き生きしていたものだったのが
上のような感覚は感じていると
徐々に徐々に黒く滲んだようなものになり
自分の心を汚れさせていきます
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さてそんな中で近年、言葉として出来あがったのが『毒親』というワード
最初、この言葉に出会った時
なんて言い得てる言葉なんだ!と感動すら覚えたのですが
巷では、『育ててもらった親になんてことをいうんだ』・・などと批判の声も
あったらしいですね
『親ガチャ』なんて言葉も
けしからん!なんて言われておりましたが
私としては『在っていい言葉』なんではないかなと思っています
子供が子供として存在する年齢は
思春期まででしょうか
子供は3歳くらいに背の高さが100センチになり
そこから思春期まで伸び続けますが
小学校に入るころはおよそ120センチくらい
毒親に育てられた子供さんに聞くと
幼稚園から小学校全般時代が一番虐待されたと答えることが多いので
その頃の背は・・と調べると110センチから140センチが平均でしょうか
女性の背の平均を160センチ
男性の平均を170センチとして
30から60センチ、自分よりも背が高い大人(親)から威圧的に責められ
叩かれて怒鳴られるという毎日は
本当に身体も心もすり減ると思われます
今、私の背は165センチほどなのですが
そこから30から60センチ高い背丈の人と言ったら195から225センチ
・・・・もはや巨人
2メートルの人がいつもイライラして
機嫌を損ねると手が出る・・なんていう状況は
今の私だったら、本当に『やばい逃げろ😭』となるが
子供は逃げるという手段を持てません
大きな人間が
上から見下ろしてきて
怒鳴られたり馬鹿にされたりという日々を過ごしてきたということは
小さな人間に対して
どれだけの圧力だったのかということを
想像してみるべきなのだと思う
ちなみに私の母親はいつも私を殴ったり引きずったりしていたが
中学生になった私が一度だけ
殴る母親を押し返したら
押し返された母親が
ものすごく驚いた顔をして
それ以降、体罰は無くなったのだ
あの驚いた顔を思い出すと正直気分が落ち込む
母親は『自分がやり返される』といった恐怖と防衛から
私に体罰を与えなくなったのがわかり過ぎるから
本当に姑息だな・・と思うのだ
そういう一つ一つのエピソードからしても
親が親ではなく
記憶から想起されることといえば
『親が情けない』といったことばかりで
この感覚を大人になってまで
子供に及ぼし続ける親の存在は
まさに『毒』としかいえないよな・・と思う
では、この『毒』をどう始末つけるのか・・・?という問題を
私たち虐待を受けた子供側は考えるわけであります
親を見限ることが早々にできた方は回復が早いです
毒を毒と認識できた方は
早く身体と心が『排毒と解毒』を始めるから回復が早い
自分には異端なものだったと認識し始めた身体の心は
すぐにそれを排毒し始めます
しかし、ここで厄介なのは
『罪悪感』
『親を悪いというべきではない』とか『育ててもらったのに恩知らず』
などと周りから言われると
自分の中に入れられてしまった毒を認識できずに
むしろ『有り難がらないといけないんではないか・・・?』
と思ってしまいます
そうすると
本当に毒が毒として身体に回り始めるのです
カウンセリングでは毒は毒として扱います
いかなる理由があれども
今、現在困っているクライエント様のそのお困りの原因が
『毒』にあるのならばそれは『毒』として認識していいのだと考えます
クライエント様は
むしろ『毒なのかよくわからない・・』という状態の時にいらっしゃることが多いので
『今、困っている原因を変化させたいのであれば
毒だときちんと認識することが大事』 とお伝えします
このところ
クライエント様でも
『排毒』とか『解毒』がテーマになられる方が多くて
でもどの方も『罪悪感』をセットで持っていらっしゃる
まずは『罪悪感』を解消して
その後に本丸の『毒だし』をするのですが
そうすると雰囲気が本当透明になってくるのよね
すごく清々しくて、いいものになってくる感じがあって
そしてご本人様も
それが自然に受け入れていて
オーラと佇まいが強くなられます
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さて『毒』って本当の発生源はどこなのだと思いますか
毒という漢字のなりたちをみると『女性』が関係しているのです
少し長くなりますが引用で
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「毒」という漢字の字源についても、例によって例のごとく、さまざまな説があるからです。
一番伝統的な説明は、「毒」という漢字は、「屮」と図のような漢字から成り立つ、というものです。図の漢字はさらに、「士」と「毋」に分解されます。「士」は「立派な男性」という意味、「毋」はよく見ると「母」とは違って、「~ではない」という意味で、図の漢字は「立派ではない」「みだら」という意味になるそうです。それが「草」を表す「屮」と合わさって、「よくない草」「毒草」という意味になったのが「毒」という漢字だというのです。 また、「毒」は「生」と「母」から成り立つ、という説もあります。この場合の「生」は「生え始めた草」のことで、「母」は「子どもを産む」ことを表します。子どもを産む際に服用した強精剤の草のことを表したのが、「毒」だというのです。
ほかにも、「毒」は「髪飾りをつけた女性」の姿を現したものだ、という説もあります。この場合、「母」は女性の姿で、その上の部分が髪飾りということになります。たしかに、篆文(てんぶん)の「毒」という字は図のような格好をしていますから、これを見ていると、そんな雰囲気がないでもありません。その髪飾りが派手で毒々しいところから「毒」の意味が生まれた、というのが、この説の主張するところです。 以上、3つの説をご紹介しました。ある程度の大きさの漢和辞典なら、各漢字に字源の説明が載っているものです。字源に興味を持たれたなら、いくつかの漢和辞典の字源の説明を比較してみてください。きっと、おもしろいと思いますよ。
^^^^^^^(漢字文化資料館ホームページより)
一つ目の説はどこかしら西洋圏のキリスト教に通じるような感じがします
女性は男の肋骨からできたという旧約聖書
男の付属品だったという女性
とかく『毒』の漢字のなりたちには『女性』がとことん付き纏います
かのフロイトは
『家父長制こそが女性のヒステリーの原因だった』といっていましたが
毒の底にあるものは
『性の差別』が生み出したものなのかもしれません
でも『毒にも薬にもなる』ということわざがあるように
その『差別』が違う形になってきたらば
その毒が
本当は妙薬・・てなこともありますし
カウンセリングでは最終的な到達点は『毒を薬に変じる』ということをします
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