女性の窮屈

『女の子』はいつでも

私自身、解離が取れてきたときに実感することがありました

それは女性らしい服装への『わだかまり』と『屈託』であります

私は小さな頃
『可愛らしい』と言われたことがなく
自分でも『女の子』としてみられることに圧倒的な違和感がありました

『女の子』はいつでも、か弱くなくてはならないようで
『女の子』はいつでも、いい子でいなくてはならないようで
『女の子』はいつでも、男子から嫌われないような存在で

『女の子』はそもそも生まれながらにして
たくさんのハードルがあるようでした

誰からも受け入れられるのが女の子

誰からも愛されるのが女の子

そのハードルをクリアして、初めて
周りから『女の子』として認められる

『女の子』って認められないとなれないものだと思いました

けど、そんな『認められ』はひどく私には窮屈で屈辱的なものでした

「見た目」が『気に入られなくてはならない』

見た目がまず、『気に入られなくてはならない』

誰に?
ジャッジする周りを黙らせるだけの見た目を持たないと
人はあーだこーだ言うのだ・・とも学んでしまいました

見た目がいいと言うことが『力をもつ』のかもしれないと学んだのは
幼稚園の頃です

人間の視線というのは『綺麗な子』に向くのだと観察し分かった私は
この世のパワーバランスは
『見た目』にあるのかもしれないと思うようになりました

『人には難しいこと』をこなす人も一目置かれる?

しかし一方で
見た目だけではなく
類い稀な『人には難しいこと』をこなしてしまう人も
一目置かれるのだということも学んできました

そう
『一目置かれる』という立場は
割と人から攻撃を受けることもないし
守られることが多いのではと学習してしまった私は

それから『一目置かれる』ことを追求する子どもになってしまいました

私が絵を描くことに長いことこだわっていたのは
一目置かれることが多かったからであり
それを追求すれば
人と争わず
出家したかのように
静かに生きていけるかも・・と言った願いからなるものでした

私の本当の目的

私の目的は『人から侵害されずに生きていければいいのだ』ということに気づくまで
長い長い周り道をしてきたのでした 

なので人からジャッジされることから逃げまくってきた私は
『女性としての評価される戦い』は非常に苦痛で自分を無理させるものでした

女性が自然に女性だということを受け入れること

そんな自分には『女の子らしい』ことは似合わないと思い込みました

そもそも
『女の子』に向けられる他人からの『採点されるような感覚』は嫌で仕方がなくて

スカートを履くのが屈辱的で仕方ないという小学校時代でした

ワンピースを着ていて 風が通る感じが
心もとなくて

お股もすーすーするし

何より不便

パンツ見られたらダメなのに
なんでパンツ見える可能性のある洋服が女性のものなのか

誰にために洋服を着るものなのか

自分のためなのか
他人のためなのか

パンツ見えたら嫌なくせに
キャーキャーいう感覚はなんなのか 

嫌悪しているのは一体何になのか

ともかく
自分が女性だということを受け入れられないと言う幼少期でした

今もそれは名残があります

女性が自然に女性だということを受け入れるまでに
私は時間がかかりました

時代もあるのかもしれません

   

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