言葉の場が違う 

自分の精神構造を見ること

トラウマというものをテーマにしてカウンセリングをしてきましたが
どうやら、大きなターニングポイントにきたようです

そもそも臨床での手応えで
現在の精神医学のモデルでは
問題にされていない場所があるということは感じていました

そして、自分自身においても
なんだか釈然としない部分があるのもわかっておりました

カウンセリングは言葉を使って
クライエントの構造を見ていくものです

ですが、その言葉にも限界がある 

そしてクライエント様に尋ねても
一番触りたい部分が浮上してこない 
(自分の場合も然り) 

なので必然的に、『感覚』を使って探って行くしかない

ーーーーーーーーーー

そんな折りに
私はある限界にぶち当たりました

言葉が通じないという事が起きたのです

同じ日本語を使って話し合っているのに

全く違う『層』で話している感覚

相手の言うことは『言語としては理解できる』のだが

その言語に『乗せている意味合い』が全く違うという現場があったのです

話し合いは平行線でした

そこで決裂したのです

『わかりあうことを諦めた』と言う訳です

そこで、私は『話し合う』ということから解放されました

『話せばわかる』という、子供の頃から教えられてきた『場』から
降りることを決意しました 

言葉がない場所
秩序がない場所 

それは、私にとっては
感覚の世界だけに浸れる時間でした

私はそこで思ったのです

(言語が思ったより私の内部に侵食してきていた)ということに気がつき始めたのです

言語を捨てるまで(言語に惑わされなくなるまで)しばらくかかりました

ウロウロと公園を歩いたり
ベンチで寝たり

お腹が空いても、それを言葉として認識しないため

身体と感覚が動く方へと
ただただ、移動して行くような日々が続いていきました

まず私が気がついたのは『時間』という言語の持つ力でした

『時間』という言葉から何を連想されますでしょうか

ーーー(守るもの)
ーーーー(刻むもの)
ーーーー(追いかけてくるもの)
ーーーー(無駄にしてはいけないもの)
ーーーー(守らないと怒られるもの) 

====(時は金なり)

なんて意味合いを帯びるものでもありますね

おそらく、誰一人として
全く同じような感覚で『時間』というものを捉えている人は
いないと思います

『時間』という言葉から連想する個体が、それぞれの人間でもあり
そこに個性が出ます 

なので人間は『言葉』というものに
繋がれた存在でもあります

そして私ももれなくその一人でありました

言語というものは不思議なもので
一旦意味合いを帯びると、効き目を発揮し始めます

なんとも不思議なものよなあと

『言葉の世界』で仕事をしてきた私は

言葉の持つ、または言葉が持たれるものに
距離がおけるようになってきたのです 

自分の中の言語というものは
『縛り』の意味合いを持つものが非常に多いことにも気がつきました

ううむ
おかしい 

なので言葉というものがどう存在するかということを
考え出したのです

まず、前提として
生まれながらの赤ん坊には『感覚』があります

全ての世界は『感覚』だけの世界であって
(自分の身体)なんていう境界すら感覚では持ちえません

段階と時間をかけて

自分の身体があると認識して
不快感を感じたら、自己保全の為に『泣く』というプログラミングされた行動をして

そうしたらば自動的に外部から乳が流し込まれ

(不快感を感じる→泣くという能動的な感覚と体験→外部からもたらされる満足感)

流し込まれた感覚が、満たされる という感覚に変化して
(それがつまりお腹いっぱいになるということ)

でもそのときは、言語を持たない状態なので

めくるめく変化の世界を
ただ体感していくだけです

すごい時期よな・・!!

おそらく自分の周りに聞こえる音で
もしかしたら優しく語りかける誰かの声は

美しい音色に聴こえたのかもしれない

たくさんの音、外気、温度、重さ(重力)、重力に逆らって動こうとする自らの内部からの力

などたくさんの感覚が
徐々に、時間をへて
そして『繰り返しのパターン』があるということに気がつき

赤ん坊は『秩序』の存在に気がついていくのです

そうして、ずっと兼ねてより
自分に降りそそいできた、ある音色が『言語』だということに気がついてく

ーーーーーその気がついていく・・というところが面白いところで

私たちは『言語を覚えていく』過程は、
『覚えていく』というフレーズの言葉で習いましたし

それをイメージとして捉えると

『言葉』を飲み込んでいく・・みたいな感じでしょうか

親からしたら
『言葉を教え込む』みたいな感覚を持たれる方もいらっしゃるかもしれません 

わたしは当初はそう、思っておりました

だから言葉は摂取するもので
飲み込むもので
そして頭で理解して、咀嚼するもの

というイメージを言語に対して思っておりました

そして、『起きた物事』を説明するときに『言語』を使ったり
『起きた物事』を謝罪するときに『言語』を使ったり

そして難儀なことに

『心を込めて言葉をいう』という強制が学習であったりしたものだから

『言霊』なんていう言葉に惑わされたり

『嘘』をつくことが悪いと教えられたから
感じたままを述べてみたらば怒られたり

まあ、とてつもない混乱を
わたしは言葉の存在で起こしていた訳です

しかしどれもこれも初期の設定が間違えていた
・・・というより、これも言語のマジックで
『言葉を覚える』という言葉自体が『ゆらぎ』を起こしていたのです

まず一番の誤解として

言葉=気持ちを伝えるための道具

だから『覚えなさい、そして使いなさい』と言われていたものですが 

違います 

言葉は『自分が生まれる前からある構造』です

自分が言葉を使うのではなく

『自分が言葉の中に入る』
つまり『言葉の世界に参入する』ということ。 

言葉の特徴は『象徴的なもの』ということです

わたしの愛する哲学者は 
• 想像界=イメージ
• 現実界=言葉にならないもの(根源のトラウマ体験などはここにあり)
• 象徴界=言語・法・名前の世界

と言っておりました

なので言葉は象徴界です 

つまり

意味が成立する『場』なのです

冒頭に書いた『言葉が通じない』というのは仕方がなかった

同じ意味合いが成立する場に
そもそも居なかったのだから

話し合いをしたところで、『場』が違うのです

『言語の場』が違った

私は
『言葉にならないもの』に無理やり言葉をねじ込んで説明をしなければならなかったと共に

『言葉』によって縛られてきたものを
説明したかった 

だから軋轢が生じた 

⸻話を戻すと 

言葉は「差」でできているということを
前提として持っていないと、世界は難しいものになりえます 

言葉には『普遍的な固定された共通』なものはありません 

これ重要なところです

言葉は『もの』を直接指してはいないのです

例えば目の前にりんごがあるとします 

あなたは「りんご」と言います 

でも

その音
「り・ん・ご」

この音の並びは

その赤くて丸い物体と自然に結びついているわけじゃありません 

英語では apple
フランス語では pomme

つまり

物体と音は偶然の約束であって

自然な必然じゃないということを前提として 
つまり

言葉は「ものそのもの」じゃないのです 

言葉は
ものに貼られたラベルです 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここからが重要 

では意味はどこから来る?ということですが

ここが『差異のネットワーク』 

「りんご」はなぜ「りんご」か? 

それは

「みかん」ではない
「ぶどう」ではない
「石」ではない

という違いの中で、(やっと)意味が生まれている

りんごという言葉は、

他の言葉と区別されることで意味として、やっと成立するのです 

もうひとつの例として 

もし世界に果物がりんご🍎しかなかったら?

「りんご」という言葉はいらないでしょう 

区別する相手がいないから

意味は「違い」の中でしか生まれないのです 

これが『差異』 

『差異』があるからこそ言語が生まれた 

ではネットワークってなに?というところですが 

言葉は単独で存在しません 

全部つながっていて関係性で成り立っています 

たとえば「母」

母は
• 父
• 子
• 家族
• 愛
• 厳しさ
• 世話

などの言葉との関係の中で意味を持ちます 

あちらの子供を産まない方ではなく・・
身体が小さい方でもなく・・
何かに属していたりもして・・

など意味合いがあって、初めて
『母』という言葉に立体感が出てきます 

つまり
意味は孤立していないのです 

関係性がある、その網目の中で揺れている存在、それが『意味』です 

これがネットワークがあるということ。

だからこそズレるのです 

言葉はラベルです 

しかも他のラベルとの違いでしか意味がない

だから

現実の感情や体験を完全には捕まえられない

冒頭に私が言っていた

言葉が通じない 

あれは、

他者との間で
言葉が、同じ場において収まりきらなかった瞬間なのです 

なので言葉は必ずズレがでる

言葉は完全に現実を捉えられません

必ずズレ(余剰ともいう)がでます

このズレが
・欠如
・欲望
・症状
・物語

を生みます

(面白い構造なのでもう少し頑張って*\(^o^)/*)  

『体験≠言葉』

の構図は

トラウマ治療をしているとよく出会います

トラウマ体験は巨大だった
でも
言葉では見当たらない

これがズレです

このズレが欠如をうみ、欲望をうみ、症状であらわされ、物語を生みます

世界で多くの含蓄ある物語があるのもうなづけます

白雪姫も 赤ずきんも オオカミ少年も
背後にある寓話的な体験は
物語じゃないとあらわせない

だから、ナラティブセラピー(人生を物語として捉えるセラピー)なんかも流行る訳です

なので
言葉は、個別に分解されて、個人個人で咀嚼しているということではなく

『言葉』から伸びる網の目のようなものの
どこに自分が参加するか(もしくは繋げられたのか)

という構造なのです

どこに参加しているか(繋げられているか) 

私にはこれは非常に面白い転換でした

その構造で自分を眺めてみると
まあ、『コミュニケーションを取る言葉』への参加率(繋がり)が
非常に危うい

いや、参加はしているのですが

別の言葉への参加と、同一に繋がっていたりして
例えば(ありがとう=服従)とか

そんな構造をしていて非常に面白いとともに

言語の持つ、スケール感がものすごく立体的なのだと感じて
とても嬉しくなってしまったのです

まるで、初めて本当の言葉を取得して行っているような、そんな感覚すら覚えるのです

これは、ある意味
境界線の新たな持ち方かなとも考えています

そもそも境界線は、自分と他者の間に2本あるものです

1本は、自分を守る境界線

そしてもう一本は他者が持つ境界線

コミュニケーションと言語のやりとりは
そこで行われます

それと同じことで、

もし、齟齬が生じたり
言葉が刺さってきたりする場合が出てきたら

『相手の言語の構造があるからこそ
その言葉が発せられたのだ』

と理解していたら

それは相手の言語の中の物語であって

意味を理解せずとも
そのままそっと、『そういう構造なのね』と

自分の構造を、より一層引き締めればいいだけだと。

また
『ずれ』についてですが
もしズレが無かったら 

体験=言葉
完全一致

感じたことをそのまま100%言える
言葉が現実を取りこぼさないという状態が出来上がります

『愛している』という感覚は壮大でそしてエロスもあり
一体感を感じたいという欲望も生じさせ
維持したいという未来への不安と希望をもたらす、そんなたくさんの感覚を内包する言葉ですが

体験=言葉が
一致していたら

思っていることは言語化され
隙がなく
みっしりとした強固な世界が出来上がる

そこに揺らぎはなく

なんならコンピューターのような計算性を持つかもしれない 

そうしたらば欲望は消えます

不安定なものがなくなるので
『満たしたい』という欲望が消える

『足りなさ』がないから

欠如が生まれない

そして体験=言葉だったら

差異が生まれない
差異がなかったら、意味が生まれない

個性という言葉もない

なのでズレ・欠如は『欲望』を生み出す物であるのです

言葉というものは
空に打ち上がった花火のようなものだと言います
(実際に脳の言語野の発火する様子は、かすかな火花のようなニューロンの行き来にすぎません) 

そして感覚と
体験し続けている体験は

変化し続ける空のようなものです

花火では 
空の広さと空の変化と、そして空の美しさを語れない

この一致のしなささが
ずれ、であり欠如です

そして欠如があるからこそ
人は、語りたくなるのです